閑話-主従の午後
アロイスとレフの話です。やや短め。
「殿下、報告書をお持ちしました」
「ん、そこ置いておいて」
食堂を離れたレフはその足で屯所の3階、彼の執務室へと戻った。ミーティングまではまだ時間がある、それまでに溜まっている書類を少しでも片付けよう。そう考えたからだ。
レフが書類にサインをし、判を押す作業をしていると、各部隊からの報告書をまとめたアロイスが執務室に入って来た。
そして書類に忙殺されているレフを見て苦いため息をつく。
「殿下、書類は溜めないようにと再三申し上げたはずですが」
「うるさいなぁ。だからこうしてやってるだろ」
「昼休憩ももう半ばだと言うのに今日のノルマの半分もお済みになっていないようですね」
「さっき始めたばっかりなんだって。食堂でエルと話してたらさ、思ったより長引いちゃって。エルが珍しくよく喋ってたよ」
レフの中のエルは、いつもきらきらした目で自分の話に耳を傾けていた。
しかし今日の接触では普段とは打って変わってエルがよく話し、彼の考えや奥底に秘めたものを少しだけ垣間見た気がする。
そしてそれが、思っていたより更に自分に近いものであり――自分の持つ虚ろのようなものを、彼と共有できたような気がした。無論、そう思っているのはレフだけだろうが。
レフにとっての基準は役に立つか立たないか。それは物心ついた頃からそうなっていた。そうでなければ生き残れない環境にレフはいた。そうしなくてはならない理由がもう一つあったが――それは語るほどのことでもない。
とにかくレフにとっては、常に目の前の相手と親しくなることよりも目の前の相手を殺すことが身近にあったのだった。
そんな彼が今更、愛だの思いやりだのと耳ざわりの良い感情を人に抱くことは難しい。
この話は近しい幾人かにしたことがあり、アロイスもその一人だが、それを聞いた彼はこう言った。
それはとても悲しいことです、と。言われなくてもそんなことは分かっている。
腹立たしいと同時に、喜ぶべきことでもある。レフの重用する側近は、彼の虚しい胸の内など理解できないほど明るい道をこれまで歩んで来たのだ。叶うのなら、これからも部下がその道を外れないことをレフは願っている。
「……随分とエルを気にかけておいでですね」
「そう? 役に立つ奴は大事にするさ。いつもそうしていると思うけど」
実際、レフの実力主義は隊員たちの間では有名だった。素性も経歴も関係なく、ただその実力のみを基準に評価する。そんなレフに救われてこの部隊に所属している者は決して少なくない。だからこそ隊員たちの士気は高かった。
「お気づきでないのですか? あなたが公私の隔てなく隊員と親しくすることは初めてですよ」
「公私の隔てなく? 僕はあくまで隊員として可愛がっているつもりだよ」
「そうでしょうか? 自室に招いて夜遅くまでチェスに勤しんだり、悩み相談を受けたりすることが、上官としての務めですか?」
「耳が早いな……」
アロイスは穏やかな笑みを浮かべている。アロイスにとって、レフは上官であると同時に幼い頃から見守って来た弟のような存在でもあった。
生まれ故に孤独を強いられ、ずっと一人で戦うことを余儀なくされて来た第二王子。そんなレフに心の拠り所ができることは喜ばしい。
「だってさぁ、エルってあんなんだろ。あそこまで明け透けに慕われたら、そりゃまぁ、嬉しくなくはないよ。あいつって僕より歳上なはずだろ? あんなんで大丈夫なのかな」
「素直でない言い方ですな」
「うるさいよ。さっきだってさ、僕に一生ついて来るんだって。馬鹿だよね……」
レフの口元にかすかな笑みが浮かんでいるのをアロイスは見逃さなかった。良い傾向だ。
しかし、それと同時に不安もある。
レフは少し前に結婚した。相手はガブリエラ・ストレイ公爵令嬢。以前は第一王子の婚約者であった女性だと聞いている。どんな理由があって彼女がレフの妻に選ばれたのか、レイブンの地で戦に明け暮れていたアロイスは詳しく知らないが、きっと何かがあったのだろう。
アロイスはレフに伴侶ができることに賛成だった。レフには寄り添って歩んでくれる家族が必要だ。母親を生まれてすぐに亡くし、父親は王という立場から家族らしい付き合いはなく、幼くして一人貴族社会という敵陣で戦って来た彼。彼には味方がいて欲しい。もちろんアロイス自身は彼の味方であるつもりだが、それ以前に彼は騎士で、部下だった。レフを支える役目は自分には務まらない。
だが一方で、まだ精神的に未熟なところがある主人は家庭を持つには早いようにも感じる。レフには幸せになって欲しいが、相手の女性――ガブリエラがそのための踏み台になっても良いとは思わない。
レフは城にいた頃、正妃やその取り巻きにしつこく虐められていたこともあって、高貴な女性に苦手意識があることをアロイスは知っていた。
今のところ、レフとガブリエラは決して上手くいっているとは言えない状況だ。
ガブリエラが色々規格外な女性だったこともあって決定的な亀裂にはなっていないが、レフが結婚式にも初夜にもガブリエラの前に顔を出さなかったのは流石にまずかった。
彼女は一風変わったところもあるが、控えめで大人しく、困難があっても自分が我慢すればいいと考えてしまうような方だ。
そんな彼女を見ているとたまらない気持ちになる。その原因も分かっている。
レフと彼女の結婚が上手くいくのが一番良いのだけど、それが叶わないのなら――
アロイスはそんな懊悩を封じ込め、極めて明るい声を出す。
「さ、殿下。時間は有限ですよ。ミーティングまでにこの山を片付けてしまいましょう」
しかし、兄が弟を見ているのと同じくらい、上司だって部下を見ているものである。
アロイスの態度が普段と異なっていることくらい、そしてそれが自分の一応の妻、ガブリエラに関わるものであることくらいはレフも気がついていた。
「お前って、女泣かせみたいな顔して結構な朴念仁だからなぁ」
まぁ大方、王都育ちのガブリエラの洗練された立ち振る舞いにアロイスがやられてしまったとか、そんなところだろうとレフは思っている。
パーティーで一度会ったきりだが、ガブリエラは言っちゃ悪いが田舎であるレイブンではけして見ることのできない輝きを持っていた。
その所作や足運び、表情の作り方、それはレフの嫌いなあの王妃によく似ている。王妃に似ているということはこの国の最高峰に近いということだ。過去に第一王子の婚約者であったというから、実際に指導を受けたのだろう。
王妃のことは憎らしく思っていても、レフにも審美眼くらいはある。ガブリエラがきっと貴族として優秀な女性であることは想像に難くなかった。そんな彼女に、戦続きで女性とも縁遠くなっているアロイスがころっとやられてしまうことも別におかしくはない。
別にくれてやってもいいのだ。レフは彼女に興味がない。いや、それだけが理由じゃない。
近頃レフに近づいて来てピィピィ鳴いている規格外の小鳥だって、なんでもやってしまってもいい。
レフは何も望まないし、手に入れない。過去に、そういう風にいようと決めた。
「何かおっしゃいましたかな?」
「うぅん。ま、何かあったら相談しなさい。こんなんでも上司だからね」
レフを弟のように思っているアロイスだが、反対にレフからも頼りない兄のように思われていることは知らない。
「……? ありがとうございます?」
執務室にはしばらくペンの音だけが響いていた。