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「ガブリエラ・ストレイ公爵令嬢。貴様のエレナへの数々の侮辱行為、もはや公爵令嬢の器であるかは疑わしく、我が婚約者としても不適格である。よって貴様との婚約は破棄とさせてもらう!」
クリスティアン第一王子殿下の宣言に、私は頭が真っ白になった。
今日は殿下の生誕祭。
珍しく殿下が私のエスコートを務めてくださるというから何事かと思えば、このためか。
浮かれていた数時間前の自分を引っぱたいてやりたい気分だ。
殿下の言葉に会場が水を打ったように静まり返り、次の瞬間ひそひそと囁き声が溢れ出す。
「ついに……」
「あんな地味な女ではね……」
「こうなると思っていたんだ……」
私の社交界での評判は悪い。公爵家の権力で無理に殿下の婚約者に収まったものの、殿下に相手にされないみっともない女。これが世間での私の評判。
実際、私が殿下の婚約者となったのは叔父――現養父のゴリ押しのためなので、否定できないのが辛いところである。
遠くで当の叔父が顔を赤くしたり青くしたりしているのが見えた。
「どうした? 言い分があれば話すと良い。最後の機会だ、聞いてやろう」
殿下が勝ち誇ったように笑う。
彼が愛おしげに抱き寄せているエレナという御令嬢のことを私は存じ上げないし、侮辱行為というものにも覚えがない。しかし殿下がこのような公式の場で堂々と宣言されるからには、きっともう証拠は揃えられているのだろう。
消えてしまいたかった。いくら私が嫌いでも、こんなに大勢の前で恥をかかせられる覚えはない。大声で泣き喚きたかった。
けれど、幼い頃から叩き込まれてきた公爵令嬢としての矜持がそれを許さない。
「……そちらの御令嬢への侮辱行為とやらは存じ上げません」
努めて平静を装ったが、声が震えていないか自信がない。
「なんだと?」
「ですが、殿下が私を婚約者として不適格とおっしゃるのならばそうなのでしょう。お申し出、謹んでお受けいたします」
「今更しおらしぶった所で無駄だぞ。父上にもストレイ公爵閣下にも話はつける」
つける、ということはまだ話をしていないのだろうか。せめて陛下には先にお話されるべきだと思うのだけど……。呆れてしまった。こんな場合だけど。
叔父にとって実の娘でない私は、第一王子の婚約者という価値しかない。それを失くしてしまったとなればどれだけ叱責されるだろう。また地下室に閉じ込められるかもしれない。
けれど、望まれない婚約者でいることも、将来の王妃としての厳しい教育も、もう疲れた。つい数分前までパートナーとして殿下に恥をかかせないようにと張り切っていた気分が今はもうどこにもない。
「ですから、お申し出を受けますと申し上げています」
「な」
私との婚約が彼にとって邪魔でしかなかったことはとっくに知っている。だから彼も嬉しいだろうと思ったのに、何故だかあてが外れたような顔をした。
……おそらく、私の願望が見せた錯覚だろう。せっかく婚約したのだから彼と良い関係が築けたらと、できる限りの努力をして来た。彼の好きな髪型にし、彼の好きな服を着て、慣れない刺繍や楽器の練習もした。無駄だったけど。
今日のドレスだって、彼好みの柔らかな黄色の布地をたっぷりと使った流行りのデザインをわざわざ新調したというのに。本来私はこげ茶とか、深緑とかの地味な服が好きなのだけど。
「そ、そうか。これでようやく清々する。お前のような陰気でつまらない女との縁が切れるのだからな」
会場を振り返ると、好奇と侮蔑の視線が私に突き刺さる。
「私のせいでめでたい場を荒らすのは申し訳ありませんから、これにて退室させていただきます。遅くなりましたが、お誕生日おめでとうございます、殿下」
私は会場を後にした。殿下が私を呼んだような気がしたけれど、それも私の空耳だったのだろう。
◆
予想通り、屋敷に帰った私を待っていたのは鬼のようなに真っ赤になった叔父のお叱りだった。
暗い地下室に投げ入れられ、指先の感覚が亡くなるまで冷たい水で打ち据えられる。それを見ていた叔母とその娘たちはくすくすと笑っていた。
私の父は前ストレイ公爵であり、国の貿易を担っていた。しかし私が2歳の時に母と共に乗った船が沈み、遺体すら上がっていないと聞いている。
そして跡を継いだのが父の弟、私にとっての叔父である。叔父一家が屋敷に住むようになり、父の一人娘だった私も彼らの世話になることとなった。
お荷物である私をとっとと片付けたかったのだろう。そして王家との繋がりも持ちたかった。叔父の強い希望で、私は5歳の時に第一王子の婚約者となった。
地下室の扉が閉じられるとここには一筋の光も無い。どこからどこまでが自分の体で、どこからが闇なのか、それすら分からず不安が募る。ただ頬を伝う涙の感覚だけが熱い。
「お父様、お母様、親不孝な娘でごめんなさい……」
天国にいるだろうお二人のために、良い結婚をしたかった。
今日だけ。今日だけ落ち込もう。明日になったらまた頑張ろう。
隙間風が通るたびに冷えて痛む体を抱えながら、私は床で眠りについた。
◆
改めまして、自己紹介をさせていただきたく存じます。
ガブリエラ・ストレイ、前ストレイ公爵の一人娘、歳は16。どうぞよろしく。
もう11年この国の第一王子と婚約し、来年には入籍の予定だったのですけど、誰ともしれない令嬢に嫌がらせをしたという罪でつい昨日婚約破棄を言い渡されてしまいました。
まぁそんなことはもういい。
過ぎた事でクヨクヨしても仕方がない。勉強も楽器も詩の暗唱も魔術も得意ではないけれど、前向きさと切り替えの速さだけが私の取り柄、だと思っている。
「よーしっ」
目の前には釣書の山は、全て私との結婚を望んでくださる男性からのものだ。私もまだまだ捨てたものじゃ無いらしい。
第一王子から婚約破棄を言い渡されてしまったので私の人生もはや終了、まともな婚約は望めないだろうな、すごく年上のお金持ちに嫁いだりするのかな、とか思っていたのだが、そうはならなかった。
私は腐っても公爵令嬢で、しかも、国王陛下からの覚えがめでたいと来ている。
というのも、実は私の父と国王陛下は第一学園の同級生だったらしい。婚約が決まった時に一度お会いしたことがあるけど、優しく私の頭を撫でてくださったのを覚えている。両親を亡くした私を第一王子殿下の婚約者としてくださったのは陛下のご恩情もあったと聞いた。
すると何が起こるかというと、結婚の申し込みが殺到した。主に下級貴族から。
傷がついた王子の元婚約者、けれどまだ利用価値あり。良いチャンスだと思ったのだろう。叔父は「ストレイ家を下に見おって」と憤っていたけど、私は気にならなかった。
殿下とは上手くいかなかったけれど、それで全てを諦めるのは間違っている。
まだまだ人生これから。見ていてくださいお父様、お母様……!
「領地に金鉱山をお持ちなのね……。こちらの方は再婚で、私と同い年の子持ち……うーん、流石に……」
精査を重ね、この方なら、と思った方とは実際にお会いした。始めから私を見下すような言動をする方もいたけれど、誠実に私との結婚を考えてくださる方とも出会えた。その方はシーンズ男爵様といって、何度も食事を重ね、この人となら穏やかな家庭が築けるかもしれないと感じ始めていた時だった。
「申し込みが取り下げられた?」
シーンズ男爵様を含め、私に結婚を申し込んできた男性がた全てが口を揃えて「この申し出は無かったことにしてほしい」と言ってきたという。
一体どういう事? 身に覚えがなかった。それどころか、シーンズ男爵からは好意的なお手紙が届いたばかりだ。
「不自然すぎるのでは……?」
私と叔父が訝しんでいると、侍従が部屋に飛び込んできた。
「何事だ! 騒がしい」
「それが……お屋敷に、第一王子殿下がお越しになりました」
一体何の用?
◆
「しばらくだな、ガブリエラ」
アポもなしにやって来た殿下は、通されもしないのに応接室のど真ん中のソファに座っていた。使用人たちが困り果てている。私は下がるように彼らに目で合図をした。
「本日はお越しくださいまして、ありがとうございます。お久しぶりでございます、第一王子殿下」
「……まだヘソを曲げているのか」
殿下が眉をひそめて不機嫌をあらわにする。私が彼の名前を呼ばなかったことが殿下の気に障ったらしかった。
でも、婚約破棄が正式になされた今、私と殿下はもう他人だ。どちらかというと、未だに私をファーストネームで呼ぶ殿下の方が非常識。王子相手にマナーを注意するような真似はしないけども……。
「ヘソを曲げている、とは何でしょうか?」
「私との婚約無くしてお前がやっていけるとは思えないよ。私から捨てられるような女を誰がもらってくれるというんだ? ん?」
「……お声をかけてくださる方もいらっしゃいます」
「ふぅん。ではここに呼ぶが良い。元婚約者のよしみで、私が見定めてやろう」
殿下がニヤニヤと笑う。
それで、男性たちが結婚の申し込みを取り下げるよう手を回したのは殿下なのだと確信した。何故だかは分からないけど、殿下は私に次の相手ができるのが嫌なのだ。これまで無理な婚約で迷惑をかけてきた私が幸せになるのが許せないのだろうか?
「何故こんな事をなさるのです」
「こんなこと? 言っている意味が分からないな」
殿下は立ち上がり、向かいのソファ、つまり私の隣に移動した。距離を取ろうとするより先に殿下が私の肩を抱く。
「ガブリエラ、意地を張るのはおやめよ。お前が心から謝るのなら、エレナへのことも、私への無礼も全て水に流そう。お前が素直になるだけで全て上手くいくんだよ」
「上手くいく……?」
「私の婚約者に戻れるよう取り計らってあげる」
「仰っている意味が分かりません」
嫌味でも何でもなく、本当に分からなかった。自分から私を切り捨てておいて、まるで私が殿下を困らせているような言い方をする。
いったい何なの?
つい先日まで婚約者だったはずの彼が全く未知の生物のように見えた。
「殿下。私が殿下に何を謝罪するのですか? 心当たりがありません」
「お前はどこまで私を困らせるんだ。お前のせいでどれだけの人間が迷惑を被っていると思っている?」
「本当に、仰っている意味が分かりません……」
私の声が聞こえていないのだろうか? それとも、私たちは違う言語を話している? そんな不安を覚えるほど殿下との話は噛み合わない。
「……そんなに意地を張るなら良いだろう。勝手にレイブンにでも行くがいい」
「レイブン?」
レイブンとはこの国の北端に位置する領地の一つである。レイブン辺境伯が治める土地で、国で一番寒く、冬は氷に閉ざされて出入りも難しくなるほど厳しい場所だ。
「お前に責任があることとはいえ、11年手を取り合った婚約者を放り出すのは流石に可哀想だということでね。お前を第二王子の婚約者とする話が持ち上がったんだ」
「はい?」
「あの気狂いとの婚約などあまりにも酷い話だと、私は反対したのだが。けれどまぁ、お前が頑なな態度を取り続けるのなら好きにするが良い」
聞かなくても分かる。話が持ち上がったというが、提案したのは間違いなく目の前のこの人だろう。
第二王子殿下、レフ・クラウスナー様。クリスティアン殿下とは腹違いの王子様で、6歳年下だったはずだから今はおそらく14歳だ。彼は国民から口を揃えて“気狂い王子”などと呼ばれている。
小さな頃から勉強には興味を示さず、剣を振り回しては小動物や身分の低い令息たちを虐めて楽しんでいたと聞く。今では若くして軍を率いては数多の戦場に顔を出し、目覚ましい活躍を遂げているとのことだ。彼は腕が立つこと以上に優れた戦略家としての評価が高く、非情かつ突飛な作戦で戦場を幾度も血に染めたと言われている。
王家にはたびたびこのような、優れた才能を持ったお子がお産まれになる。前国王陛下は一度聞いた言葉は一字一句違わずそらんじることのできる優れた記憶力を持っていたとか、その叔母上様は素晴らしい竪琴の奏者だったとか。そういう血筋なのだろう。
クリスティアン殿下は特にそう言った話は聞かないので、今代に生まれた才人はレフ殿下だけのようだ。
優秀なのは間違いないのだけど……。
王子という立場に生まれながら好んで戦場に立ち、敵の血を浴びて喜ぶ第二王子殿下は侮蔑と畏れをこめて“気狂い王子”と呼ばれている。
そんな彼は、現在レイブンの地で隣国との小競り合いに参加していると聞く。
「あいつと婚約などしたらどうなるか分からないよ? 戦場で盾に使われて無惨に死ぬかもしれない。何より血を浴びるのが好きな残酷な奴だからね」
彼は私に何の恨みがあるのだろう。どうしてここまで嫌われなくてはならないのか分からない。
「最後のチャンスをあげよう。今ここで頭を下げて謝るなら、婚約破棄を撤回してあげるけれど、どうする?」
「…………です」
「うん? 聞こえないよガブリエラ」
私は笑った。
「結構です。お引き取りください、殿下」