第三話 シブヤン海海戦
時は5ヵ月前、史実で武蔵が沈むことになった戦いに遡ります。
ここから歴史が少しずつ変わり始めます。
■1944年10月24日 11時
シブヤン海 戦艦武蔵
「致し方なし、か……」
電文を手にした艦長、猪口敏平少将の口からため息が漏れる。
『武蔵は艦隊より分離、妙高、野分を伴いコロンへ向かうべし』
レイテに向かう艦隊の中で一際大きな大和と武蔵はその中核戦力であるはずだった。だが今しがた艦隊司令部から受け取った電文は、武蔵が戦力外となってしまった事を冷酷に告げていた。
それは武蔵と重巡妙高が先ほどの空襲で受けた損傷により、ともに速力が18ノットにまで低下してしまったためであった。すでに両艦とも艦隊に追随できず落伍しはじめている。
「残念だが引き返す事にしよう。現状では味方の足手まといになるだけだ。本土に戻って再起を期す以外にない。長官もそう言っておられる」
顔をあげた猪口は周囲にあつまった砲術長や航海長ら幹部の顔をながめ決定事項を伝えた。
砲術の専門家、そして世界最大の巨砲を備えた戦艦武蔵の艦長でありながら、敵戦艦に一弾も放たないまま撤退する事になる彼の言葉には無念さが滲み出ていた。
「……はぁ、それがよろしいかと。確かコロン湾には工作艦が居たはずです。多少は応急修理が出来るかもしれません」
副長の加藤憲吉大佐が気が抜けたような声で答えた。激しい戦いから一転、いきなり決戦ともいえる大舞台から降ろされれた事で、彼は茫然としている様だった。
「それにしても残念ですな。レイテを目前にして戦わずに下がる事になるとは……」
砲術長の越野公威大佐が無念さを吐き出す。艦橋の空気は酷く沈みこんでいた。
「まあ仕方がない。戦いに運・不運はつきものだ。ここは一旦退いて次の機会を待とう。一歩後退二歩前進という兵法もあるじゃないか」
そう言って猪口は無理に笑ってみせた。こうして連合艦隊の全力を注ぎこんだ捷一号作戦における武蔵の戦いは、早々と終わりを告げたのだった。
この海戦で、武蔵はたった一度の空襲で後退を余儀なくされていた。わずか爆弾2発と魚雷3本が命中しただけに過ぎない。
本来、この程度の被害は大和型戦艦にとってはかすり傷のようなものである。事実、第一砲塔天蓋に命中した爆弾は、その強靭な装甲で弾き返している。また、猪口の指揮が悪かったわけでもない。
只々、武蔵には運がなかった。
■10時25分 第一次空襲
撤退が命令される30分ほど前、敵の最初の空襲で武蔵は20機ほどの敵機に襲われていた。最初に襲い掛かってきたのは空母イントレピッドのSB2Cヘルダイバー急降下爆撃機隊であった。
「右舷前方に敵機!」
「右舷後方からも敵機きます!」
彼らは練度も高く、そして攻撃も巧妙だった。
「左三十度取り舵!」
猪口は艦を左に旋回させ敵弾を回避しようとした。しかし武蔵の巨体はなかなか舵に反応しない。そして針路が変わる前に敵機は爆弾を投下した。
投下された5発のうち3発はわずかに逸れ至近弾となった。命中した2発のうちの1発も第一砲塔の天蓋装甲が弾き返し損害はない。
だが残る1発が問題だった。
「左舷中央に命中弾!」
「第十兵員室で火災発生!」
その500ポンド爆弾は武蔵の甲板2層を貫き、その下の第十兵員室で炸裂した。これだけならば大きな問題はなかった。せいぜい一部の水兵が寝床に困るだけである。しかし運悪く、その兵員室の付近には機関室の通気孔が通っていた。
「第二機械室、蒸気菅破損!火災発生!」
「機関停止!」
「第二推進軸、使用不能!」
爆弾はその通気孔を破壊し、そこを通った爆風が第2機械室の主蒸気管を破壊したのである。これにより武蔵は4軸あるスクリューのうち3つしか使えなくなってしまった。
「右舷前方、敵雷撃機!」
更に攻撃は続く。急降下爆撃と間を置かずに、今度は軽空母カボットのTBFアベンジャー雷撃機5機が襲い掛かってきた。
まったくの偶然ではあったが、その攻撃は結果的に全盛期の一航艦を彷彿させるような、見事な雷爆同時攻撃になっていた。
すでに左に舵を切ってしまっている武蔵に、その雷撃を回避する自由度は無かった。
「総員、右舷被雷に備えよ!」
猪口が叫ぶ。
そして右舷中央に3本の魚雷が命中した。
ここでも武蔵は運がなかった。
この当時の米軍の航空魚雷は不発が多いことで知られている。しかしこの時命中した3本は全て正常に作動し爆発したのである。
これによりバルジと3つの罐室が浸水し、武蔵は右舷に12度も傾斜してしまった。
嵐のような攻撃が去ったあと、猪口らは損害状況の把握と復旧に努めていた。
左舷への注水で傾斜は既にほとんど解消されている。火災もほぼ鎮火された。幸いなことに砲撃能力には一切被害がない。だが機関と浸水量が問題だった。
「我の出しうる最高18ノット」
艦隊司令部に送った損害報告にあるとおり、現状の武蔵は18ノットを発揮するのが精一杯だった。
大量の浸水に加え、3つの罐室と一つの推進軸を失ったことが、武蔵から速力を奪い去っていた。
レイテ湾に急ぐ艦隊にとって、武蔵が大きな足手まといとなってしまった事は明らかだった。
だが猪口には艦と乗員を連れ帰る責任がある。いつまでも気落ちしている贅沢は許されない。彼は気持ちを入れ替えると今後について検討しはじめた。
途中のパラワン水道には潜水艦の雷撃で損傷した重巡高雄とそれを護衛する長波がいた。艦隊司令部は武蔵と妙高に長波と合流してコロンへ後退する指示を出していた。
「航海長、ダブラス海峡抜けて真っ直ぐミンドロ海を突っ切って行こうか。そうすれば明日の朝にはコロンに入れると思うが?」
仮家航海長がすぐにチャートにコンパスをあてて計算する。
「平均十二ノットとみて……はい、明日の昼までにはなんとかコロンに着けるでしょう」
「よし、それで行こう。パラワン水道で長波と合流する。さあ気分を入れ替えていこうか」
猪口の無理に作った明るい声で皆はそれぞれの作業に戻っていった。
■レイテ沖海戦 その後
この後、昼前に米軍機の第二波が来襲した。彼らは後退していく武蔵と妙高を視認していたが、この時点では日本艦隊の阻止を目的としていたため両艦に攻撃を行うことはなかった。
そして都合四波にわたる空襲で戦艦長門の喪失をはじめ艦隊に大きな被害をうけた栗田中将は作戦の中止を決断、艦隊を反転させた。その後、更に二度にわたる空襲をなんとか凌いで撤退に成功する。
一方、武蔵と妙高は空襲を受けることなくコロンに無事到着した。そこで小休止したのち10月25日にブルネイまで辿り着く。
両艦は損傷はしているものの18ノットの発揮は可能であること、そして武蔵の修理が本土でしかできないことから、栗田艦隊との合流を待たず、駆逐艦野分、長波、朝霜を伴い先に直接本土へと向かうこととなった。
本作では史実の第二次空襲に相当する爆撃被害を第一次空襲で負っています。また史実の第一次空襲で命中した魚雷のうち2本は不発でしたが、ここではすべて爆発しています。
これが歴史の転換点となります。
速度が大幅に低下した事で、武蔵は第一次空襲後に妙高と一緒に撤退する事となりました。これにより猪口艦長以下は存命、主砲発射の爆風被害も発生していません。
ただ、武蔵が早々と抜けた事で、長門が代わりに沈む事になりました。
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