第一章 第二話
翌日、一同は揃って居徳房の李喬の屋敷にいた。
案内をしているのは弟の李順だ。
李喬の屋敷はなかなかの豪奢だった。
金吾衛の給金だけではこの屋敷は建つまい。
おそらく、何がしかの金が李喬の懐に入っていたのだろう。
李順は5人を伴い、李喬の亡くなった部屋の前でたちどまる。
少し躊躇ったのち李順が部屋の扉を開けると、不意に錆びた鉄のような匂いがユースィフの鼻腔をついた。
ーー血の匂いだ。
「ここでございます」
この部屋が怖いのか、はたまた薄気味悪いのか、李順は部屋の中へ入ろうとせず、扉を開けたままユースィフたちを部屋へ促す。
構わず、ユースィフは部屋へと足を踏み入れた。
「うん」
部屋中を見渡し、ユースィフは小さくつぶやく。
部屋はわずかに乱れており、屍体こそ片付けられて居るものの、酒が入っていたと思われる器がそこかしこに転がっていた。
李喬が持っていたと思しき刀も、鞘に入ったまま捨て置かれている。
そして、さらに視線の先、奥の壁には件の絵。
悲しそうな顔をした男女の絵が、壁にかけられたままとなっていた。
「これがーーーははあ。確かに見事な絵だ」
ユースィフはその顔に微笑をたたえ、ゆっくりと絵に近づいていく。
彼の言う通り、それは本当に見事な絵だった。
男女の悲しみが真に迫ってくる、逸品。
怪異騒ぎさえなければ、相当の高値がつけられるだろう。
絵の銘は「明明」とある。
有名な絵師の名ではない。
まだ新進気鋭なのだろう。
ユースィフはしばらく思案した後、その絵から視線を外し、部屋の外の李順を振り返った。
「この絵ですが、少しの間お借りしても良いだろうか」
「勿論ですとも。むしろ、差し上げてもよろしゅうございますよ…」
ユースィフの問いに、李順はそんな奇妙な絵は要らないとばかりに、そう即答する。
「本当ですか?」
「ええ、勿論差し上げます…」
「それはありがたい」
ユースィフはそういうと、ジュードへ絵を回収するよう指示する。
「ジュード、頼む」
「かしこまりました」
ジュードは一つ頷くと、丁寧に絵を外し布で包み込むと袋へとしまう。
「それから」
ユースィフは部屋を見回し、いくつかのものを借り受けることが出来るか李順へと問う。
「ええ。ええ。なんでも、いくらでも。この怪異騒ぎが収まるのであれば、なんでもお持ちください」
李順は大きく頷きながらそう請け負った。
「それにしても、見事な絵でしたね」
李喬の屋敷を後にし、自分たちの屋敷のある房へと帰る道すがら、ジュードは手に持った絵に対して不意にそんな感想を漏らした。
「ああ、そうだな」
ユースィフはその言葉に賛同すると、ふっと微笑う。
「しかし、この絵が本当に怪異を起こすのでしょうか…」
アスアドは、いまいち信じられないといった風に眉を顰めた。
「そりゃあ、その絵を壁にかけておけば、今夜わかるんじゃないか」
「おい、ハーシム…」
相変わらず他人事な風のハーシムに、アスアドが再び口を開こうとした時、ユースィフが心底楽しそうにその言葉を遮る。
「ああ、そのつもりだ」
「えっ!」
アスアドは思わず大声をあげると、ユースィフに向き直った。
「危険です!」
その意思の強そうな眉が、心配そうに歪められる。
ユースィフはそんなアスアドに小さく笑った。
「ん?アスアドはこの絵の怪異が人を取り殺すと信じてるのか?」
「い、いえ、そう言うわけでは…しかし…」
思わず口籠もるアスアドに、士英はやれやれといった体で助け舟を出す。
「その時は、あなたの出番じゃないですか、アスアドさん。あなたはユースィフさんの護衛なんですから」
「そ、そうか…そうだな」
ぐっと拳を握るアスアドを横目に、ハーシムはため息をついた。
「その自慢の剣で切れる相手だといいけどな」
「な……!」
「二人とも、その辺で。大の大人が真昼間に通りで喧嘩しないでください」
ジュードはそう言って眉を顰めると、ユースィフの方へ向く。
「ユースィフ様、今日はこのまま屋敷へお戻りですか?」
「いや、一箇所寄りたいところがある」
「どちらへ?」
「それは、行ってからのお楽しみだ」
ジュードの言葉にそう返すと、ユースィフは楽しげに屋敷とは反対方面へと歩き出した。
ユースィフ達一行が着いた先は、永泰の中でも貧民街と言われる永平房だった。
永泰と言う街は、北に1番の要である皇帝の城、宮城がある。
宮城の南門である朱雀門から、永泰の南の端の明德門まで延びる、150メートルもの幅を持つ大通り、朱雀大街を軸として東西対称の碁盤の目状に造られた、豪華絢爛な都市である。
勿論、全てが豪華絢爛なわけではない。
先にも書いたように、平民街、貧民街というのも存在する。
具体的に言えば延平門より南の坊は郊外と言われており、その辺りはあまり治安の良い地域ではないと言われていた。
永平房内は永泰の北側と違い、活気のないがらんとした印象を受ける。
あたりを歩く人々の服装も質素で、また薄汚れていた。
この房内では、身なりの良い西方の服装を着た彼ら一行はとても目立っている。
痩せた50過ぎの男がギョロリとした目でユースィフを見た。
その視線に、アスアドが威嚇するように睨むと、男はヒッと声をあげて走り去る。
「ユースィフ様、お気をつけを」
アスアドはそう言うと、他にも害のある気配がないか、周りを見渡し気を張る。
「うん」
そう言いながら、ユースィフはゆるりと通りを歩いた。
「ああ、この先ですね」
士英は地図から目を離してそう言うと、ユースィフを振り返る。
ユースィフたち一行が訪れたのは、房内のある質素な家屋だった。
質素ではあるがそれなりに清潔に保たれている。
この家には健全な空気が流れているようだ。
「すまないな、誰かいるだろうか?」
ユースィフは臆しもせず、家屋の扉を控えめに叩く。
しばらくすると、中から歳の頃12、3の少年が家から顔を出した。
「はい」
家から出迎えた少年は、戸口に立っていたユースィフの姿に驚くと、思わずその口をぽかんとあけた。
いくら人種の坩堝である永泰とはいえ、こんな郊外の房で西方の人間を見ることは稀である。
ましてや、一度に4人も。
少年は驚きのあまり、ただユースィフたちを見上げた。
ユースィフはその顔に微笑をのせると、沈黙を破るように口を開く。
「急にすまないな。明明というのは、君のことだろうか」
明明と呼ばれた少年はコクコクと首を動かすと、ハッと気を取り直したように口を開いた。
「は…はい。明明はぼくです…」