第一章 第一話
静かで緩やかな楽の音が、ほろほろとこぼれ落ちてくる。
繊細な指先に爪弾かれたその音を聞きながら、煌びやかに着飾った女が果実水を差し出しながらなよやかに問いかける。
「本当にお酒は要りませんの?」
「ああ、すまないな」
杯を受け取った青年は、快活に笑うと一口その果実水を飲んだ。
まだ暑さの残る夜に、喉を通る冷たさが心地よい。
蝋燭の灯に照らされただけの暗い部屋でもわかる、上品で整った顔をしているその青年は、果実水の杯を卓に置くと、対面に座る相手に向き直った。
浅黒い肌に彫りの深い相貌、澄んだ空のように青い瞳が吸い込まれそうなほどに美しい。
多人種の入り混じるこの永泰でも、稀に見る涼やかな美青年だった。
「それで?お話の続きはどうなりましたの?」
果実水の壺を置いた妓女ーー紅花は、その華のかんばせに溢れるほどの興味を表してそう問う。
紅花にそう問われ、対面に座る男はその顎髭を撫でながら思案げに押し黙った。
この男も、彫りが深い顔をしている。
青年より20ほど歳上といった風の壮年の男だ。
「あら、私には言えない事なのですか?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないがーーー」
「恐らく、アルダシール殿は…君の事を慮っているんだよ、紅花」
再び果実水を口にして、青年はそう言った。
「まあ、それはどう言う事です?柚先生」
「つまりその…女性に聴かせるにはあまり気持ちの良い話ではないと言う事だよ」
アルダシールはため息を一つつくと、苦々しくそういった。
「それはーー」
紅花の言葉を引き継ぐように、柚と呼ばれた青年はごく自然に、日常会話をするかの様に言葉を発する。
「恐らく、死んだ……って事だろうな」
「その通りです、ユースィフ殿」
「まあ…」
紅花の向かいにいる妓女は、思わず耳を塞ぐ。
それを横目に、紅花はユースィフとアルダシールへ強いと視線を向けた。
「それで?」
「大丈夫かい?」
アルダシールはそう念を押すと、紅花はしっかりと頷く。
「その金吾衛は、翌朝死体で見つかった。…死に顔は恐怖に歪んでいたそうだよ」
ごくり、と紅花が喉を鳴らす音が響く。
「なるほど」
ユースィフはごく軽い調子でそう言うと、ふむ、と顎を撫でた。
「そんなお話…一体阿先生はどこで聞いてくるのかしら…」
紅花の言葉に、アルダシールは笑う。
「長年こんな商売をしてるとね、顔が広くなるんだよ」
「で、頼まれごとも多くなる、と?」
「その通りです、ユースィフ殿」
アルダシールはカラカラと笑うと、その目を細めてユースィフを見つめた。
その視線には、先ほどまでの優しいだけのものではなく、生粋の商売人の鋭さが見え隠れしている。
「丁度、貴方からの頼まれごとと、その友人からの頼まれごとの利害が一致していましてね。もしよろしければ、ユースィフ殿に解決していただけないかと」
「うん?」
「その友人…件の金吾衛の弟ですが。兄の死に方が腑に落ちないと言うのですよ」
「腑に落ちない?」
アルダシールの言葉に、ユースィフは言葉を重ねた。
「そうです。今は、怪異の噂を聞いた金吾衛が、怪異を見た恐怖に心の臓を止めてしまったことが死因、と言うことになっているそうですが……その友人は、どうも、怪異が直接の原因となっていると思っているようでして」
「なぜそう思うんだ?」
「その金吾衛ーー李喬は、その豪胆さでは知られている男でした。そんな男が、怪異を見たくらいで心の臓を止めるか?と申しております」
アルダシールはそういうと、淹れられた茶を一口飲んだ。
この場で酒を口にしているものはいない。
紅花は、無くなったアルダシールの杯に、再び茶を注いだ。
「それで、それをオレに調べて欲しいってことか」
「そう言う事でございます」
アルダシールは恭しい調子でそう言うと、ポンと膝を打った。
「李喬の弟……李順ですが、その者がユースィフ殿のお探しのものを持っていますよ」
「なるほどなぁ」
ユースィフはそう言って長い息を吐くと、おおらかに笑った。
「ユースィフ殿の所にはイーマン寺院で修行なさったジュード殿もいらっしゃいますし、適任ではございませんか?」
「ま、適任かどうかはわからんが、李順殿がそれを持っている以上、やるしかないだろうなぁ」
全く困った様子もなく、そうユースィフは微笑む。
「では、お任せできますか」
「ああ、やってみよう」
そういうことになった。
「……良いのですか、ユースィフ様」
アルダシールと紅花たち妓女が下がり、仲間内だけになった部屋で、それまで黙っていたジュードがその柔和な顔を少し顰めて口を開く。
実は、今までの会話は全て堯語で話されていたため、堯語が話せないジュードは口を挟むことができなかった。
話の内容だけは、通訳の士英を通じて把握していたが。
「まあ、できる限りやるさ」
ユースィフはそうあっさりというと、楽しげに笑う。
「壊れた壺は元に戻らんしなぁ」
その言葉に、立派な体躯を縮こめたように座っている赤毛の青年が、ビクリと畏まったように素早く頭を下げた。
「……申し訳ありません…!!おれがしっかりしていれば…!!」
放っておいたら頭を床に擦り付けそうな勢いで謝る青年を見て、ユースィフはまあまあと宥める。
「大丈夫だ、誰にでも失敗はあるさ。な、アスアド」
「面目もございません…!!」
謝るアスアドを他所に、片目を眼帯で隠した青年ががぶっきらぼうに質す。
「で?実際にどうやって調べていくつもりなんだ?」
まるで他人事のように言ったこの青年も、壊れた壺に無関係ではない。
「ハーシム貴様!まるで他人事のようにいうが、そもそも貴様がちゃんと商品管理をしていれば、こんなことにはならなかったんだぞ!」
「ああ?うるせえな、お前だって無関係じゃないだろ」
「ああもう、二人とも!いい加減にしてください!」
睨み合いを始めた二人を引き離して一喝すると、ジュードは大きなため息をついた。
「あなた方二人は、この件に関しては連帯責任です!」
「……!!」
「……ちっ」
「そうですよ、アスアドさん、ハーシムさん。二人とも喧嘩をしている場合ではありません。件の商談まではあと8日しかありませんから」
士英の言葉に、3人は押し黙った。
そもそも、なぜこんな事になったのか。
遡れば3日前の事。
10日後に商談で使うための壺が割れた。
「……で、ここでお二人で暴れてこの惨事、というわけですね?」
本来の柔和な表情はなりをひそめ、こめかみに血管を浮き上がらせながら、ジュードはアスアドとハーシムの前に立ちはだかっている。
「オレは暴れてねえ」
ハーシムの、見えている片方の目だけが不満げに細められる。
「嘘をつくな!そもそも、貴様がイーマン教の戒律を破って、酒などを飲んで商品の管理をしているからおれが…」
「暴れたんだろ?」
「酔っ払って転びそうになった貴様を、引き離して商品を守ろうとしただけだ!」
「守れなかったけどな、はは!まー見事に壊れたもんだよなぁ」
「貴様…!!」
ハーシムの言葉に、アスアドの身体に力が篭る。
一触即発の二人を見て、更にジュードの額に青筋が浮かぶ。
「二人とも黙りなさい!!ハーシム殿、あなたが戒律を守ろうと守るまいと、そんなこと知った事じゃありませんが、商品の管理はあなたの仕事のはずでしょう!」
「……ちっ」
鋭いジュードの言葉に、ハーシムは思わずきまりが悪そうに口をつぐんだ。
「アスアド殿!貴方もです。相手がユースィフ様でも同じように引き離しますか?」
「そんなはずないだろう!」
ありえない!と言った風にアスアドは言葉を返す。
「なら、そういうやり方があったはずです!商品が壊れたのは、貴方にも責任があります!」
ジュードの言葉に、ハッとしたアスアドは自分の非を認めたように俯き、謝罪を述べる。
「…すまない…」
ジュードはため息をつくと、思案げに視線を壺へと落とした。
この壺の交渉は10日後。
大変珍しい100年前の壺で、とても苦労して手に入れた商品なのだ。
「お?どうした!みんなで集まって」
3人が押し黙っていたとき、不意に明るい声が響き渡る。
「ユ、ユースィフ様…!」
強張ったようなアスアドの声を聴き、ジュードが諦めの嘆息と共に視線を上げた。
「ユースィフ様。ちょうどいい、ご報告しなくてはいけません。見ての通り次の商談に使う予定の壺が破損しました」
「す、すみません…おれのせいで…」
「……」
3人それぞれの反応を見て、ユースィフと共にやってきた士英は思わず感心したように壊れた壺を見下ろす。
「おやおや、これはまた見事に壊れましたねぇ」
「士英殿、感心してる場合ではありませんよ」
ジュードの声に、それはそうですね、と同意しながらも表情を変えずユースィフへと向き直る。
「ふむ、商談は十日後の夕刻でしたね。暮鼓が鳴る前に商談を終えなくてはなりません。どうしますか、ユースィフさん」
「うーん…そうだなぁ」
「おれが、なんとか…!」
「できるのかよ」
「うるさい!貴様も何か案を出さないか!」
「まあ、落ち着けって。オレにちょっとした考えがあるから…もしかしたら、今のこの壺より年代の古いものが手に入るかもしれないぞ」
ユースィフの言葉に、アスアドはその凛々しい相貌をパッと輝かせた。
「本当ですか?!」
「そうだな。ま、ちょっとした注文を付けられるかもしれないが…それもまた一興ってことでいいだろう」
そう面白そうに笑いながら言うユースィフに、アスアドはその瞳に強い力を灯す。
「勿論、その注文とやら、必ずおれが解決してみせます」
「おー、頼んだぞ」
「貴様は、どうしてそう人任せなんだ!!」
顎髭を撫でながらそう茶化すハーシムに、再びアスアドが憤慨する。
「貴方達はまた、懲りずに喧嘩をしない!!」
きりきりと眉を釣り上げるジュードを宥めて、ユースィフは笑った。
「はは、まあ、なんとかなるだろう!一緒にやれば解決するさ」
「はい!」
「さ、そうと決まれば動くぞ。士英、アルダシール殿に連絡をつけてくれ」
ユースィフの言葉に、士英は恭しく頭を垂れる。
「おまかせを」
「ジュードは手土産の用意」
ジュードは頭を振って気を取り直すと、与えられた仕事を完遂すべくしっかりと頷いた。
「はい」
「アスアド、ハーシムはここの掃除な」
「はい…」
「へーへー」
にっこり笑って悪戯っぽく言ったユースィフに、二人はわずかに項垂れて肯定の意を表した。
そういったわけで、ユースィフたちはアルダシールへツテを求めたのである。