第八話 博士と化学
フリッツ・ハーバー博士は、かの有名なハーバー・ボッシュ法で名を轟かせ、ボルン・ハーバーサイクル等に名を遺し、ノーベル化学賞も受賞した博士であった。彼にはハーバー・ボッシュ法によるアンモニアの合成以外にもう一つ有名になったものがある。毒ガスである。
第一次世界大戦はまさに技術の大戦であった。一連の戦いの中では毒ガス以外に飛行機や飛行船などの実践投入があったし、他にも種々の技術革新も起こした。戦争には負の面の多いが、技術的観点から見ると正の面もある。限界に追い込まれ、必要に駆られ、進歩を促す。一方で科学は正の面が数多く認識されている。鉄道によって、人はより早く移動することができるようになった。携帯電話の普及によって、我々はいつどこにいても連絡をとることができるようになった。しかし科学にも当然負の面がある。鉄道は、排煙による環境汚染を引き起こしたり、感染症の爆発的拡散の一因となったりする。近年では携帯電話、特にスマートフォンによるネット依存も問題になっている。そのような科学の、技術の進歩の、負の面を初めて大々的に世に知らしめたのが第一次世界大戦であった。
第一次大戦当時、彼には妻がいた。クララ・イマーヴァール。当時数える程しかいなかった女性博士のうち一人である。彼女は自身の研究ができるものだと思っていたがフリッツは彼女に主婦であることを求めた。そのことが彼女の心を蝕んでいった。
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「成功だ!」
フリッツは叫びながら帰宅した。
「西部戦線で毒ガスの実用性が確認された! 私は祖国の役に立っているんだ! これほど嬉しいことはない!」
「おかえりなさいませ」
対して迎えたクララは憔悴しきっていた。研究のできない日々、妻を顧みない夫、毒ガスの実験での動物の死にゆく様、その全てが彼女を衰弱させていた。
興奮し、自らの研究に熱中しているフリッツが気付くことはない。
「次なる運用のために私はまた籠もるからよろしく頼んだよ」
そう言い残してフリッツは彼の研究室に入っていった。
ここはベルリン。毒ガスと祖国に全てを捧げる男と弱り果てた女が住む家である。
それから数日後。閑静な住宅に一発の銃声が響いた。クララが放ったものだ。
それから彼女は自らの胸に放った。
遺体は夫のフリッツではなく息子のヘルマンによって発見された。
自殺の原因は定かではない。精神的な異常や不倫への疑い、遺伝的な要素など様々な議論がある。毒ガス使用への抗議という説も挙げられ、これは後世の科学倫理に一石を投じる形となったが、その真偽は定かではない。
いずれにせよ確かなのは、この事件によって、失われつつあった一人の優秀な科学者が、戦争の狂気によってその未来を永遠に断たれたことである。
「私は立ち止まってはいけない」
妻の死から一段落ついたフリッツは東部戦線へと向かおうとしていた。
「偉大なる、父なる国のために、私は振り返ってはいけない」
フリッツは自身に暗示をかけていた。
「皇帝陛下のためにも」
そうしてフリッツは再び旅立っていった。
この後、既知の通りドイツは敗者としてこの戦争を終える。
彼の編み出したアンモニアの合成法は「水と石炭と空気からパンを作る」とまで言われ、その功績からノーベル化学賞をもらうが、敗戦国の戦争に貢献した、毒ガスを開発して戦死者を増やしたとみられて風当たりはよくなかった。
さらにその後、ドイツではナチスが政権を掌握し、ユダヤ人への態度は極めて悪化した。研究員にはユダヤ人が多く、彼らの解任を求められた結果、フリッツ・ハーバーは職を辞した。
彼はいつでも祖国に尽くし続けた。しかし彼の生み出した毒ガスという道具は、ナチスによって彼の同志たるユダヤ人に対して使われた。
そのとき彼は何を思ったのだろうか。