第七話 イギリス「紳士」の「華麗」なる外交
いつの時代も、大国が2つあれば、いがみ合う。20世紀後半のアメリカとソ連もそうであるし、この時代――1900年前後であればイギリスとドイツもそうである。この二大国はヨーロッパでもヨーロッパ外でも争っていた。
ヨーロッパでは建艦競争である。海軍は高価であり、そのために国力の象徴でもあった。
この時代の最も有名な船といえば、Dreadnought(意:怖いものなし)であろう。ドレッドノートは革命を起こした。彼女はその時点で他のどの船よりも圧倒的に強力で、すべての船を旧式にさえした。しかしそれは序章に過ぎなかった。ここから第一次世界大戦まで、或いはロンドン海軍軍縮条約締結まで、列強たちはひたすらこれを越える戦艦を生み出し続けるのだった。
ドレッドノートは日本の言葉にもその名を残している。宣伝文句などで登場する「ド級」という言葉。これはお察しの通りドレッドノートが由来である。
また、この時代の日英関係は良好であった。それを象徴するのが三笠である。日露戦争で有名なこの戦艦は、イギリスで建艦されていた。イギリスは世界中の国に戦艦を売る、いわば「世界の艦の工場」であった。
一方ヨーロッパ外、すなわち植民地では3C政策と3B政策が有名である。
イギリスが進めたのは3C――Capetown, Cairo, Calcuttaを結ぶ政策だった。ケープタウンとカイロの間は縦断政策とも言われ、フランスが進めた横断政策(西アフリカからジブチまで)とぶつかったが、対立には至らなかった。
他方、ドイツが進めたのは3B――Berlin, Byzantium(イスタンブールのこと), Baghdadを結ぶ政策だった。これは見事にイギリスと対立することになった。
かくしてイギリスとドイツは対立すべくして対立した。
話を世界大戦に戻そう。世界大戦ということはヨーロッパだけでなく世界中に目を向けなければならない。ドイツは3Bに沿って権益を得ていく。同盟国のオーストリア=ハンガリーを通りすぎ、辿り着くのは「瀕死の病人」オスマン帝国であった。
オスマン帝国が瀕死の病人などという笑えない異名をつけられたのには理由がある。露土戦争である。直近の戦争で、オスマン帝国の支配下にあった地域は次々に独立し、その国力の極端な低下を露呈した。ロシア帝国はバルカン半島へ汎スラブ主義を掲げてオスマン帝国をバルカン半島からほとんど追い出した。それからロシアは独立した国々の後ろ楯となるのだが、それはサラエボ事件から開戦までの流れへと繋がった。このようにオスマンにとってもドイツは利害が一致しており、関係を深めていた。
そんな中、一つの事件が起きた。ドイツとイギリスの開戦後、オスマン帝国に売却予定で支払いも完了している艦を、あろうことかイギリスは強制的に接収した。勿論この時点ではオスマンは参戦していない。
この一件は、オスマン帝国とドイツ、オーストリア=ハンガリー両国の更なる接近を促した。そしてイギリスは、なんとも誇りあるイギリス「紳士」らしい外交をしたのであった。
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オスマン帝国の参戦後、アラブ人たちのもとへ一人の考古学者が派遣された。彼の名はトマス・エドワード・ロレンス、人呼んで「アラビアのロレンス」である。
「邪悪な」オスマン帝国に対して反乱を起こしてもらうべく交渉にあたった。彼の尽力の結果、アラブ人国家の建設を約したフサイン=マクマホン協定が成立した。その結果、オスマンは更に追い詰められていくことになる。
――ところがその翌年、サイクス=ピコ協定が成立した。これは、英仏露三か国の勢力圏を定めたものであった。さらにその翌年にはバルフォア宣言が出された。これはユダヤ人居留地の建設を約したものであった。
これら3つは、時折「三枚舌外交」とも呼ばれる。その内容は、矛盾しているともとれるし、矛盾していないともとれる。
しかし、確かなのは、イギリスの紳士な態度が招いた問題であるのは確かだろう。アラブ人、フランス、ユダヤ人――これら三者は各協定、宣言の不鮮明な部分のために対立した。
別にこれは過去の話ではない。特にアラブ人とユダヤ人との対立は未だに根強い。ユダヤ人はユダヤ国家が建設されるものと思っていたが、実際には約束されていたのは居留地だけであった。アラブ人は完全な独立だと思っていたが、実は英仏の影響下での独立であった。彼らは英仏も交えながら対立を繰り返し、そしてパレスチナ=イスラエル問題に繋がっている。
第一次世界大戦は、現代の出発点でもある。ユダヤ人とアラブ人の対立にも、第二次世界大戦にも、主要な要因となっている。
今話の投稿日は、2019年6月28日――ヴェルサイユ条約締結から丁度百年である。皆さんも、これを機会に時代の大きな転換点について学んでみてはいかがでしょうか。