5 うちうちのうちあげ
綾成はしばらくぶりの完全な連休をダラダラと過ごした。なんの約束も予定もない。
早上がりした日はそのまま爆睡し、翌日はぼちぼち起きだして映画を観に行った。そのあとは本屋とCDショップを回り、旨い蕎麦屋のカウンターでさっと食べた。浮かれた街をひとりでそぞろ歩きすると開放感に浸れる。
そして二日目に起きた時間はあんがい早かった。『三十を過ぎると回復が遅い』わけでもないらしい。
待てよ、歳をとると朝が早いとか?
殺伐とした冷蔵庫を漁り、残っていた冷凍のパンを食べているうちにまた眠くなってきた。
日常の買い物しないと……、このまま年末まで自炊しないままだ。
けっきょく鈍い冬の陽が頬に当たるのを感じながらソファで二度寝してしまった。
他の着信の気配はスルーしていたのに、母の江梨からのそれには勘がはたらく。
『綾成、今どこ?』
「家だよ、今日は休みでのんびりしてる」
『そりゃそうよ、今日は日曜だもの』
「ああ……」
自分だけが休みかと思えば、なんてことはなく世間一般もそうだった。
『クリスマスだし? 出先かと思ったの。なら電話しててだいじょうぶね。それとも誰かいるのかしら』
「誰も、ひとりだって」
『あらあー』
いちいち交際相手を検分されるような歳ではないし、そういうことをする親でもない。
『年越しの予定を聞きたかったの。いつ帰ってくる?』
「二十九日に有明でイベントがあるから、そこから直帰するよ」
『いわゆるコミケってやつ?』
すなわち国内最大規模の同人誌即売会。近頃は一般的認知度も上がっている。
「そう、今年は顔出さないとならなくて』
会場の有明から大崎に出て、湘南新宿ラインに乗ると説明すると、『大崎の駅ナカで買ってきて』となにやら洋菓子の名前を挙げられた。
『正月休みはゆっくり過ごせそうなの?』
「うん、ひとつ作品が終わったからね」
『ふうーん』
息子がなんの作品をやっているかの報告などしない(とくに今回の作品はあまり喧伝したくない)。母も商業イラストレーターなのだが、特別大きな案件でなければ知らされないので、お互いさまだ。
「母さんの方はどう?」
『年末進行なんかとっくに終わってるわよ』
「ああ、そうだったっけ」
映像業界と出版業界は近しいようでそうでない部分もある。
『それで綾成、クリスマスと正月にふさわしいおめでたい話題はないってことなの?』
「クリスマスに相手がいないんだから、察してよ」
『もう、甲斐性なしねえ。寂しかったら今からこっちに来れば?』
東京の外れに差し掛かる武蔵境と、神奈川の相模湾に面した鎌倉は、電車で二時間程度だ。
「明日もあるし。母さんたちの予定は?」
『大輔さんと『五郎蔵』で呑むの』
いつまでも仲の良い夫の名を挙げた。
「なるほど、いいね」
両親の後輩が夫婦で経営する酒屋兼和食屋は、海沿いの国道近くにある。酔客が騒ぐような店ではなく、気の利いたものを出す。綾成も帰省すれば一度は訪れる。
「おれも帰ったら行きたいな」
『わかった、予約しておこうか』
正月の鎌倉は狂気じみた混雑っぷりとなるが、『五郎蔵』はとくに観光客向けの店ではないので、のんびりと旨い酒が愉しめるはずだ。
電話を終えて、溜まっていた通知を眺めた。
嶋津をふくんだグループメッセージがやたらと多い。遡ってゆくと、江藤と琴未とで打ち上げの段取りを進めてくれていた。
まかせてもだいじょうぶそうなので、委ねてしまう。
楢崎から軍資金をせしめれば文句はあるまい。
さらに辿ってゆくと、茅乃からのメッセージが混ざっていた。
『クリスマスはどうしてましたか。今日が放映日ですね』
綾成が彼女を記憶の隅に追いやろうとしているのを見越したかのように、サインを送ってくる。
東京と九州の距離をつなぐ心は綾成にはないのに。
茅乃は綾成より十歳若い、ハワードの動画の新人で、当時はほとんど面識も認識もなかった。
ハワードの状況が傾きつつあった頃、綾成はグリーングラスからグロス請けの作品を回していた。
『俺は噂を聞いた。ちょっと探ってみろ』
目をかけてくれていた楢崎のヒントで、ハワードが沈没船と化していることを知った。
水面下で楢崎と話をつけ、身近なスタッフだけを連れてグリーングラスへ移った。
ハワードが倒産したのは数ヶ月後だった。茅乃の動画研修が終わったばかりの頃だ。動画スタッフは作画チーフが仕切っていたし、ハワードの創立スタッフだったそのチーフと若手の綾成の間には距離があった。
茅乃と再会したときには、ハワードの倒産から半年以上が経っていた。
グリーングラスの作画募集に彼女が応募してきたのだ。履歴書の記載から綾成に照会があった。
はっきりと彼女を思い出せず、それこそ琴未や元ハワードのスタッフたちに聞いてまわったほどだ。
ハワードに残っていたスタッフたちのほとんどが行き先を決めたと聞いていたが、茅乃はそこに入っていなかった。茅乃は書類選考の時点で落ちてしまい、綾成は自分が見捨てたような罪悪感を持たざるを得ず、個人的に連絡を取った。
何度か会って話を聞いた。ふんわりと頼りなげでいながら画力を向上させようと奮闘している茅乃は健気だった。
強く求められてアドバイスや練習のサポートをすることになり、そのうちになし崩し的につきあい始めた。
『ニシさんとあろうものが、後輩に手を出すとか!』
琴未にはずいぶん憤慨された。当時の彼女は、彼氏と揉めていたので八つ当たりのようにも思えた。
『オトコってやっぱり若い子がいいんですねー。オジサン化してません?』
そういう琴未の彼氏もまあまあ年上だったが。
それから七社目の応募に落ちたあたりで、茅乃の様子が変わってきてしまった。
なんとかアニメーターとして復帰してほしいと思う綾成に対し、彼女の意欲は目減りしてゆく。
綾成は、母の江梨がどれだけ努力してイラストレーターの仕事を続けているかを知っている。自分自身、限界を感じて進路変更もしている。描くことを追い込まない茅乃の失意、は甘えの域としか受け取れなかった。
───温度差は広がる。
翌年度の採用を見送った茅乃は、実家から帰郷を促されるようになった。ごくあたりまえのことだ。
茅乃の実家は福岡で、アニメーターに復帰しようと思うなら複数の会社がある。バイトと仕送りを頼りにする不安定な生活より、親元で落ち着いて先を考えるべきだ。
綾成は彼女の未来になにもプラスできないまま、別れを決めた。
制作現場だけの『もふもふクロニクル』打ち上げは、放映日の翌日の月曜日になった。
駅の反対側にある居酒屋で座敷の貸し切りができた。急もいいところだったが、この日を逃すとコミケの日程も絡んできてしまう。
社内に席を置いていたスタッフをメインに四十人ほどが集まった。てきぱきと幹事をこなす永井とそれにつき添う江藤、もっぱら出迎えに徹している嶋津でうまくバランスが取れている。綾成はさっさと座敷の奥に陣取った。
放映直後ということで、視聴者からの好意的な反応にみんな喜んでいた。席でもネットのまとめサイトなどを覗き込んで盛り上がっている。男女比は七対三といったところか。
昨日の母との会話の影響で選んだ日本酒を舐めながら、適度に会話しつつ賑やかな様子を眺めた。
「神回って言われてるー!」「このシーンもっと褒めて欲しかったなあ」「動仕(動画仕上げ)がんばったよね、これ」
怒涛のような現場だったが、最後にはうまくまとまり作品をあるべき姿にした。
グリーングラス自体の忘年会もあったのだが、ほとんどのスタッフが絶賛作業中で二次会などには参加できなかった。こうして楢崎の太っ腹な『志』を元に発散できてよかった。
奥にいても、ご機嫌伺いにやってくる者は多く、必然的に綾成の手前にいる撮影部とも会話が繋げられる。独立部隊の雰囲気の強い彼らだが、きっかけがあればすぐ打ち解ける。
タイミングを見計らっていた江藤が、ビールと箸持参でやってきた。
撮影監督を始め、改めて撮影部や特効を紹介して江藤の過去作品や今回の撮影処理をひとしきり讃え合った。
改めて乾杯し、江藤が日本酒に興味を示したので追加の酒器を頼んだ。
相模湾の小さな漁港近くで育った綾成には、店の出す魚介類はあまりいただけなかった。誰かが外してくれた串焼きやら卵焼きやら、男どもの多いテーブルでは減らない野菜の類いをつまんだ。
「今日は幹事を引き受けてもらって、ありがとうございました」
「好都合だったよ、永井さんと一緒にできたから」
直球である。威力はないが、慎重に受け止めねばならない。
理知的なチタンフレームの眼鏡がよく似合う江藤は、細身の躰にネルシャツとノータックチノを合わせ、洒落っ気のあるわけではないが、清潔感のある男だ。綾成は彼の几帳面な仕事姿勢や生活態度にとても好感を持っている。
「永井は、どんな感触ですか」
敢えて話題にのせてみた。
「そうだなあ、焦っても仕方ないよね。恋敵が強力っぽい」
江藤のライバルはすなわち二次元。
「人気アニメーターの江藤さんなのに?」
「オレに好意的なのは男ばっかだよ」
江藤は自虐的に微笑んだ。淡々とした雰囲気からは想像つかないような、ねっとりとエロい絵を描く。
「コミケの売り子を頼んでみたんだ」
「ああ! それは有効ですね」
「そうかな、女子にはザンネンな誘いじゃない?」
「腐女子な永井向けじゃないですか。引き受けました?」
「まだ。調整してみるって。このあいだ、までは悪くはない反応だったんだけど」
届いたぐい呑みグラスに、重い口当たりの日本酒を注いだ。
「お、けっこうクるなあ」
「串焼きに合いますよ」
なるほど、と江藤は箸を伸ばす。シャキシャキした大根サラダともバランスがいい酒だ。
「西門さんは───、気にならないのかな、俺が永井さんを誘っても」
「江藤さんが行く先々で女子を喰ってる男なら阻止しますけどね」
「それはないよ……。これまで仕事と趣味以外にエネルギーが向かなくて。あ、モテない男の負け惜しみっぽいか」
江藤がグラスを掌の中で弄びながら苦笑した。
「業界ではよくある話じゃないですか。カツカツの二十代を乗り越えて余裕と自信のついた三十代」
「『あのイロオトコ』の西門くんには、いつでも女性がいるって永井さんが」
「いつでもじゃないですよ、入りたての頃は振られたし、現に今だって」
「俺なんか彼女がいる時期を数えた方が早いけど、西門さんはいない時期か。さすがだなあ」
「そんないいもんじゃなくて。永井にはよく叱られてますけど」
「永井さんはこのあいだ、から、ぷりぷりしてるね」
『ドヤ顔で』報告したときの琴未の反応に引いた嶋津は、江藤になだめさせたらしい。火種を撒いた挙句、無責任で、いかにも嶋津がやりそうだ。
「前の彼女がハワードにいた子だったんで。つきあったときも別れたのも、どっちにしても怒られました」
「かなり───、ショックだったみたいだね」
「うっかり伝え損ねてたんで、薄情者扱いです」
「うん、なんかいろいろ聞かされた」
「信用ないんですよ、おれ。あ、仕事はべつですけど」
「この先───プライベートで永井さんと進展する可能性はないの?」
これが本題か。
「いいえ、ないです」
いたって裏のない探りだったので、綾成も同じように答える。
「これをきっかけに、とかは?」
琴未の前の彼氏からも疑いの目を向けられたし、職場でもたまに聞かれる。慣れっこだ。
「あっちはおれのことはクソミソですよ。願い下げでしょう」
「───そうかなあ」
「おれにはだいじな後輩なんで、今の関係性を壊してまでどうこうしようなんては思わないです」
確信を持って宣言する。
江藤なら腐女子の岩戸にこもっている琴未を引っ張り出すのではなく、そっと岩戸へ入って寄り添ってくれそうだ。
申し分ない相手の懸念は取り除いておきたい。
「おれも気をつけますけど、これからも仕事で組むことは多いと思います。そのあたりはわかってもらえるとありがたいです」
前の彼氏は心の狭い因縁をつけていたのだ。
「おれを仕事バカ扱いしますけど、彼女も仕事をだいじにしているので、そのあたりは理解ある方が……?」
いつまでもグリーングラスや綾成の近くで働いてくれるかはわからないが、彼女が仕事を手放すことはないと思う。
「もちろん。だって仕事を介して知り合ったわけだし」
色味チェックや版権の色相談など、ちゃきちゃきと場を取り仕切る琴未にうれしげにやり取りしていた江藤だ。
「江藤さん、羨ましいなあ。おれも、そんな風に認識の擦り合わせができる女性を見つけたい」
「それが永井さんじゃないのが不思議なんだけど」
ちょうど琴未が離れたテーブルで立ち上がったところだった。小柄な躰で身軽に人の背の間をすり抜けてゆく。
彼女を見つめる江藤の眼差しは熱っぽい。
綾成が同じような温度で琴未を見るのことはないだろう。そもそも、これまで過去を通り過ぎた女性たちにそんな熱を持ち得なかった。
「今さらだし、江藤さんみたいな度量のある男とは張り合えませんよ」
奥の壁に寄りかかってぼそぼそと話していると、琴未がふたりぶんの目線に気づいた。すこしのためらいの後に近づいてくる。
「男ふたりでしっぽり語り合って、腐女子に対する燃料投下ですか」
モヘアのセーターにコーデュロイキュロットを合わせ、そこから伸びた脚はオリーブドラフト色のタイツに包まれている。多くの腐女子がそうであるように、琴未もごくふつうに可愛らしい二十代の女性だ。
「永井さん、こっち来ない?」
「いえ、せっかくの燃料ですから遠火でじっくり楽しみます」
江藤はまっとうな誘いに、琴未は両手を振って断り、そのまま手洗いへ行ってしまった。
作品が終わって、これまでより攻勢をかけている江藤の態度ははっきりそうとわかる。綾成の前では気恥ずかしいのかもしれなかった。
「つれないな。照れてるんですかね」
「いや、このあいだ、からちょっと───」
なぜか『このあいだ』を繰り返している江藤は途中で切って苦笑し、グラスを干した。