4 パピヨン
綾成は社長室を退散したついでにワンフロア上の仕上げ室に向かうことにした。
琴未がいるようなら、打ち上げの前振りをしておきたかった。
ほかにも理由があったはずだが、気の緩みからか眠気が強くて勘が働かず、思い出せない。会えばわかるかもしれない。
確かにしゃっきりしていないようで、階段で足がもつれそうになった。ここでケガでもしたら年末年始が台無しだ。
「お疲れさま───」
仕上げ室のドアを開けると、室長の中里が「あれ、ニシくん」パソコンモニタから目を上げた。
「メール見たよ、お疲れさま。たいへんだったね、今回は」
ついさっき、関係者に一斉メールで納品終了を報告しておいた。
「なんとか終わりました。ありがとうございました」
「私はなにも。ニシくんはもちろん、永井ががんばったからね」
「───ニシさん!」
仕上げ室は撮影やCG部と同じく、パソコン対応の衝立有りの机が並んでいて、中里を別格にしてゆるやかに作品ごとの並びで席が割り振られている。
年末進行の状況に合わせるためだろう、出社している者はまばらだった。
綾成に呼びかけたのは琴未だったが、あからさまに口を尖らせていてご機嫌斜めの様相だった。中里に苦笑されながら手振りで追いやられた。
なんで不機嫌? 個人的な納品完了報告のリストから外れてたか?
座業のスタッフのほとんどがヘッドフォンをつけている中を横切りながら、「お疲れさまでした、西門さん」「サンキュ、またよろしく」密やかに挨拶を交わす。
「永井、お疲れ。今日は休みじゃないのか」
「リテイクのヘルプです。その代わり、明日から連休をもらうんで」
他班の作品のファイルがモニタに開かれている。
ひっきりなしにショートカットキーを叩いていた永井の手が止まった。
「ニシさん、ひどいじゃないですか!」
「んん?」
「嶋津さんからメッセージもらったんです」
「ああ、打ち上げの話?」
空いている椅子に座ると、じろりと見られた。ウェーブのかかった明るい色の髪が揺れる。
「……打ち上げって、いつ?」
「嶋津さんが年内にやりたいって。みんなでOA観たいとも言ってたけど、夜中だしな」
「これから年内って、手配できるんですか」
「さあ、あの人なら無理やりでもまとめるんじゃない? 江藤さんがうまくコントロールしてくれるだろうし。でも永井の参加できる日で決めると思うよ」
「後で聞いてみますけど───、それより!」
椅子をくるり回転させて綾成の方へ向いた。
「あの子と別れたんですか!?」
それか。やっと思い出した。
「ああ、やっぱりいってなかった?」
「嶋津さんからドヤ顔で教えられました!」
琴未の声には勢いはあったが、さすがに声はひそめられていた。
「え、会ったの?」昨日の今日で。半日も経ってない。
「メッセージですけど、ドヤ顔絵文字がついてたし、見れば嶋津さんの得意げな口調が思い浮かぶし」
想像して笑ってしまった。それにしても、嶋津はむしろ打ち上げの方を伝えるべきだろう。
「他意はなかったんだよ、忙しくてさ。身を粉にして働いてたろ?」
「顔突き合わせて同じ作品をやってたんだから、いくらでもタイミングはあったでしょうに」
デスクも兼ねていたから、普段より話数単位の現場と接する機会は多かったが、駆け足で要件を伝え合って通り過ぎているような状態だった。
「単に忘れてたっていうか───、忙しくてそれどころじゃなかったし」
「それどころって、あいかわらずなオトコ……」
琴未はハワードでの二年後輩に当たるが、専門学校卒なので四歳下だ。
とにかく綾成の女性関係には「薄情」「淡白」「真面目になれないなら相手にするな」と厳しい。
「おれはともかく、あっちから報告なかった?」
「───そんなに親しいってわけじゃないし」
茅乃はハワードの作画にいたので、部署ちがいだが琴未のさらに後輩になる。
「けっこう前だよ、八月ぐらい? そのあと『もふクロ』に途中参加することになったはず」
「でも今月、『忙しそうですね』ってメッセージは来てたけどなあ」
「それならおれは関係なくて、永井と彼女とのつながりの話だろ」
「そうかな、うーん……」
解せない顔だったが、綾成にはふたりの親密度はよくわからない。
親しくないといいつつ、茅乃はよく『永井さんに聞いた、職場での綾成くんの話』をしていた。
「あの子は?」
「実家に帰った。それは聞いてる?」
「初耳……」
驚いた永井はますます首をひねっているが、綾成自身が朝に着信したメッセージを持て余してるところだ。
「って、止めなかったんですか?」
「あんまりうまくいってなかったし」
「ええっ!?」
ショックを受けている永井にむしろ戸惑う。
「なんだかんだで一年以上続いてるし、結婚するかと思ってたのに」
「───まさか」
「なにが、まさか?」
「あっちはまだそんなこと考える歳じゃないだろ」
「歳って、ニシさんは適齢期そのものじゃないですか」
「考えたことないなあ」
「ええー?」
「もう終わった話だから」
嶋津にもいった言葉を繰り返した。
別れたあと、茅乃からの連絡には応えていない。そのうちなくなるだろうと思っている。
「いつもながら、淡白なもんですね。『もふクロ』だって卒なく以上にこなしてたし」
掘り下げたい話題でもないので集中力が湧かず、眠気に負けないように机に肘をついて頭を支えた。
「永井はそう言うけどさ、おれが仕事に支障をきたすほど萎れてたらどうすんだよ」
「え……」
「その方が可愛いげあるって褒めてもらえる?」
チラリと横目で見てみると、琴未はショックを受けていた。
「……誠意を持ってお慰めします、けど」
「想像つかないなあ。叱られてばっかだから。まあおれが悪いんだけど」
「───すみません。私の方がひどいですね。ニシさんの気持ちも考えず」
神妙な様子でかしこまって膝に手を揃えている。
不意に嶋津が例えた『パピヨン』がお座りをしているところを連想して笑みが浮かんでしまった。
「なんで笑うの!?」
「そんないきなり殊勝になられても」
「謝ってるのに! すみませんねえ、可愛げなくて?」
「いやいや可愛いよ、永井は」
綾成はあまり考えたことがなかったが、ここ最近では嶋津も江藤もそう思っているはずだ。
「な……んですか、いったい」
思いがけなく頰を赤らめている。
しおらしい反応にカマをかけてみる。
「永井の方こそどうなんだよ。連休取ったんならクリスマスの予定は決まってるわけ?」
江藤になにがしかのチャンスを与えたのか。
「決まってますよ、もちろん。腐女子会です」
「ああー」
内容はよくわからないが、琴未は他社アニメの二次創作をしたり、定期的にイベントにも参加したりで常に忙しそうだ。
「その腐女子永井の天岩戸を叩いてるオトコが登場してない?」
「え……」
綾成が躰を起こして向き直ると、琴未は目を泳がせた。
威勢がいいわりに、ちょっとの刺激でうろたえるデリケートさがパピヨンぽい。
「男みんなが元カレみたいなわけじゃないんだし、そろそろ岩戸から出てきてもいい頃合いかもよ」
江藤は実力もあるし、その手のアニメーターにありがちなオレサマ気質も見受けられない。だいじな後輩をまかせてもいい。
「……」
あまり追及するとまた噛みつかれる。黙ってしまった永井をそのままにして立ちあがった。
「打ち上げの件、江藤さんや、嶋津さんから相談されたら聞いてやって」
「───ニシさんはあの子がどうして私に連絡してくるのか、わかりますか」
琴未は茅乃の名前を呼ばない。綾成も固有名詞を使わないようにしていた。
「さあ。おれはもう関係ないから、単に永井を慕ってるんだろ」
そんなわけないですよ、と琴未は力なく笑った。
否定の意味を追求するほど綾成の思考回路は働いていなかった。
「ニシさんは、クリスマスどうするんですか」
「おれは予定もないし、休みを満喫するかな」
「ひとりで?」
「クリスマスにそこまでのこだわりはないよ」
琴未はまた押し黙った。
眠気を抑えるために綾成は朝からろくなものを食べていなかった。
ランチタイムの『キャラセル』へ寄って自分を労おうと、逡巡する気配の琴未を置いて退室した。