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3 Inner Sea

 朝まで喋り倒す勢いだった嶋津(しまづ)をなんとか押し留め、夜の明けきらないうちに東伏見の自宅へ送っていった。

 けっきょく嶋津はパフェの後にフライドポテトもたいらげた。

「ダイエットは松が明けたら!」

 せめて健康を損なわないようにして欲しい。

 綾成は車を社に返し、凍えながら歩いて部屋へ帰った。

 出社までにすこしばかりの仮眠を取るために、冷え切った部屋のつめたい布団に潜り込んだ。



 切り立った崖の上から荒い波の海を眺めていた。

 吹き上がってくる風は厳しい。

 こんなにも激しい断崖は、綾成の実家のある鎌倉にはない。

 曾祖父が去った国の海だろう。

 青灰色の空の光は鈍いが、曾祖父の優しい瞳にも似ている。

 これはひとつ作品を終わらせた心が見せる夢だ。

 一度しか訪れたことのない自分のルーツに夢で出逢うと、まだ到達できない目標を思い出す。



 ───アラームが鳴る。


 断崖と海の夢は心の奥底をわずかにゆり起こしたものの、目覚めた綾成の気持ちは凪いでいた。

 年末は、次の作品までの助走期間だ。

 遮光カーテンを開けて、エアコンをつけた。

 スマホに緊急事態を知らせる連絡が入っていないのに安心して、シャワーを浴びて時間を読みながらコーヒーを淹れる。

 局納品の受け付け開始時刻は、グリーングラスの始業時刻よりすこし早い。アニメ業界の現場は時間感覚がおおむね後ろへずれている。

 ソファに腰掛けてコーヒーを啜り、改めて見回してみると、忙しさにかまけていて部屋が荒んでいたのがよくわかる。

 最低限の掃除しかしていない部屋に、窓から射す陽の光の中に塵が揺れている。

 せっかくのソファが台無しだ。ハワードを辞めたときに景気づけで奮発した北欧の名作だ。それは当時の彼女の機嫌を大いに損ねた。

 再就職先にアニメ会社を選んだこと、出版社に勤めていた彼女の住まいから、電車の乗り換えが必要な武蔵境に引っ越したこと、それらを相談しなかったこと。綾成が「勝手に」「大枚はたいて」家具を買っていたのも許せなかったらしい。

 ソファで価値観の差異を決めてしまうなんて、馬鹿げている。

 そうは思ったものの、今の部屋には彼女を招き入れないままで終わった。


 肘掛けの木材に艶が失せている気がして、ポケットに入れる前のハンカチでひと通り拭きあげた。ハンカチはけっきょく洗濯機行きだ。

 そのままの勢いでコートを羽織って出掛けようとすると、スマホに着信があった。

 通知画面に別れた茅乃(かやの)の名前が浮かんでいる。出版社の彼女の次につきあったのが茅乃だった。

 別れて数ヶ月が経つが、たまにこうして連絡がある。

 懐かしむより戸惑いの方が強い。綾成に茅乃への想いは残っていない。

 身勝手な男だ。彼女の求めるようには支えられず手放した。それで綾成の気持ちは終わってしまった。

 琴未(ことみ)はそうした感情を察知して綾成を叱るのだろう。

 溜め息をついて、会社へ向かった。


 スタジオグリーングラスの自社ビルは、JR東日本の中央線、武蔵境駅から徒歩五分に位置する。

 制作室の『もふもふクロニクル』班のシマはガラ空きだった。

 最終話前は全員体制で追い込んだので、他の進行たちは代休だ。ただし不測の事態が起こればすぐに召集する約束になっている。

 自分の部屋と違い、二十四時間換気の社内は暖かくてぼうっとしてくる。メーカーからの連絡を待っていると、別班の制作たちも出社してきた。

 隣のシマに出社してきたデスクに、「あれ、西門さんひとりですか。終わりました?」聞かれた。

「局納品の連絡待ち」

「今日はもう帰れるんですか?」

「うん、まあ」

 返事をしながらも生あくびが出る。

「眠そうですね」

「本当なら日づけが変わる頃には帰れたはずなんだけど、V編が終わったあと、嶋津さんにファミレスへ連行された」

「嶋津さんもずいぶんデレたなあ。最初はツンだったのに」

「ツンツンだったよな」

 社内でそうとは口には出せないが、会社設立を誘ってくれるまでになったのだから、たしかにデレた。

 実際は嶋津の作風と綾成の目指すところは相容れないし、彼はあちこちで見込みのある制作相手に声をかけているにちがいない。これからは、スタッフの貸し借りがせいぜいだろう。


 ようやく───というのは綾成の感覚で、まず順当な時間にメーカーから局納品が受けつけられたと電話が入った。これで完全に終了だ。

「お疲れさまでした。終わりましたね」

『一時はどうなるかと思ってましたが───。滞りなく納品できて、助かりました。西門さんのおかげで、気分よく年が越せます。また次の機会もよろしくお願いします』

「ぜひ。良いお年を」

 年明けに打ち上げをやりますから、とメーカーのプロデューサーは機嫌よく電話を切った。

 出社してきた制作たちに見守られていて、口々に労われた。

豊田(とよだ)さんの代わり、たいへんだったなあ」「嶋津監督、最初は意味なく反発してたし」「ふつう、あの状況ならありがたがるよな」

「最後はすっかり協力的だったから、まあいいよ」

「最終話っていつOA(オンエア)だっけ?」「俺、一回も観てねえ」

 意外と社内の他作品は気にする余裕がない。気にするとしたら、空いたスタッフを自分の作品へ引き込むためだ。

「二十五日の二十四時半」

「微妙な日づけだな!」

「クリスマス明けなんだから観てくれ。ところどころすげえ人が描いてるし」

 同じ十二月終了の作品を抱えた班はなくて、進行中、あるいは年明けスタートの班ばかりで制作室は気忙しい。

 確認してみると社長が在席しているようだったので、納品終了の報告がてら、社長室へ向かった。


 一階は制作室がメインに入っているが、いちばん奥に社長室が存在する。

 社長室とはいえ、楢崎(ならさき)と総務三人の席、応接セットが置かれているシンプルな部屋だ。ただし、どの部屋でも必ず積まれている作画素材の入ったカット袋や、紙の束はほとんどない。

「楢崎さん、おはようございます」

「ニシ、お疲れ。座れよ」

 早々にリタイアした前の社長から会社を受け継ぎ、下請けがほとんどだったグリーングラスを業界で五本の指に入るまでに大きくした人だ。

 滲み出るオーラや顔の造りは濃く、声もよく通る。初対面で、強烈なパンチを喰らったように固まった人を知っている。。

 実際には公平で人が好い部分もあるので、威圧感を出しまくっている方が周りはかえって安心だ。

「納品終わりましたんで、その報告です」

「そうか、お疲れ。───コーヒー飲むか?」

 楢崎が立とうとしたが、総務兼秘書の増地(ますち)が「私が淹れますよ、西門くんは書類提出に協力的だから」と代わってくれた。

「その話の振り、年内に総評を出せってプレッシャーが半端ないんですけど」

「もちろん出してくれるって思ってるわ」

 増地も元々は制作で、楢崎の後輩だ。結婚と出産を機に総務へ異動している。

「たいへんな仕事だったな。引受けてくれて感謝してる」

 正面のソファに座った楢崎が、まじめな顔で言った。

「いえ───。豊田さんには世話になってるんで」

 綾成はグリーングラスに入社後、いったんは楢崎の腹心の部下である豊田の手許に置かれた。生え抜きが多い制作の中で馴染めるようにとの配慮だった。インパクトある楢崎に対し、豊田は物腰がやわらかく親しみやすい。

「豊田さん、どうですか?」

 綾成が『もふもふクロニクル』を引き継いだ当初は体調が良ければ出社していたが、楢崎の指示もあり、今は完全に自宅療養している。

「年明けから復帰するといってる」

「ありがたいですね。万全ですか?」

「豊田の持ってる真壁(まかべ)監督の作品は、年明けから本腰を入れないと。このままって訳はいかんからな」

「自分でよければ手伝います。直近の企画が危うい感じだし」

集秋舎(しゅうしゅうしゃ)のアレな。アレは───、結論出させないとならん」

 出版社側から持ち込んできた企画だったのだが、原作人気が急降下し、連載打ち切りの噂もある。

「コミケ初日に顔を出すので、あちらの様子を見てきます」

 グリーングラスは夏と冬のコミケに企業ブースに出展するので、手すきの制作が交替で参加する。冬は十二月の二十八から三十日に開催され、綾成の受け持ちは初日だった。

「ああ、頼む。だとしたら、真壁監督のは二人体制で立ってもらうかもしれない」

「おれは補佐でいいですよ」

「───現場の意向次第だな。ニシが付いてくれるなら、豊田も余裕を持って復帰できるだろうから助かる。続けてで悪いと思ってる」

 楢崎に下手(したて)からの物言いをされるとむず痒い。

 増地がニコニコしながらコーヒーを出してくれた。

「西門くん、いまならワガママ言っても聞いてくれるわよ?」

「あ、それならおねだりします。身内だけの打ち上げやるんで、楢崎さんの(こころざし)を」

「んん?」

 増地が「正に現金ね!」と笑った。

「年内にちゃちゃっとやるんで、五十人ぐらいですかね。一人当て千円ぐらい出してもらえれば」

 音響現場を含めたメーカー主催の打ち上げは年明けになるが、制作現場だけで一区切りつけたいと嶋津にねだられた。

(かおる)ー、どうかなぁ?」

 楢崎が哀れっぽい声を出した。

「今月はヒミツのお財布からだいぶ使っちゃいましたからねえ」

 忘年会シーズンだけに、つきあいが多くてイレギュラーな出費が多いのだろう。

「でも、年内はもうこれでおしまいですからね。コミケの物販がんばってくださいよ」

「わかった、広報に顔を出して発破かけるから」 

「おれも手売りしてきます」

「あらあ、西門くんが手売りしたら殺到じゃない?」

 増地は綾成をイケメン認定してくれているが、実際はイベントでは意味がない。参加者にはそれぞれ心に決めた人がいるのだ。

「俺ならどうだ」

「表に顔を出さないこと。相手が怯えちゃいます」

 ふたりはいつものように他愛のない掛け合いやっている。

 コーヒーの効き目が薄く、ぼんやり眺めていると「ニシ、休み明けまでに用意しておくから、今日はもう帰れ」と促された。

「仮眠は取ったんですけど」

「三十を過ぎると回復が遅くなるんだよ。実感するだろ?」

「しどけない西門くんてちょっと危険なオトコっぽいわ。早く帰りなさい」

「そんなにだらしないですかね、おれ?」

 今日は外に出るつもりもなかったので、ヒゲはあたったものの、ジップアップのニットにジーンズといつもよりラフな服装で来てしまった。

「そうじゃなくて。イロオトコは自覚ないのかしらねえ」

「俺だって捨てたもんじゃねえだろ」

「既婚者がイケ図々しい」

 増地は手元の書類をてきぱきと処理しながら、楢崎をも片づけてしまった。

「馨は厳しいよなー」やり込められてうれしげな楢崎である。

 増地の立ち位置は豊田ともちがう。部下というより対等に渡り合える後輩だ。

 綾成と琴未はまだまだその域には達していない。仕事では信頼しているが、プライベートが絡むとどうもうまく噛み合わない。



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