10 トリニティノットリング
土曜日、豊田の見舞いを済ませた綾成は晴れない気分でブックカフェ『キャラセル』へ寄った。
夕方になると重く雲がたれこめ、気温が下がって風まで吹いている。
『キャラセル』は回転木馬を意味する。店はグリーングラスとは駅の反対口の特徴的な図書館建物の裏手、雑居ビルの三階にある。
司書の資格を持ち、都内の大型書店で経験をつんだ坂下という女性が本屋としての管理をし、カフェ部分はオーナーシェフの男性、土屋が取り仕切っている。ふたりの歳は綾成よりすこし上で、関係性はいまひとつ読めない。
壁面には背の高い書棚が並び、フロアの間仕切りを兼ねた低い棚もちょうどいい間隔で本が差してある。
新しくないビルのため窓の数はすくないが、ほどよい陽光と影が居心地のいい空間をつくりだしている。綾成は、板張りの床が足音をまろやかに響かせるのがすきだ。
店内の本には手をつけないつもりだったので、オープンキッチンのカウンターに腰を落ち着けた。
本のために湿度管理のされた店内は過ごしやすい。
プリントしたシナリオを読みながら、データの設定リストと照らし合わせる作業に取り掛かる。
「このあと、会社に戻るんですか?」
土屋が聞いてきたのは、頼んだのがアルコールでなくコーヒーだったからだろう。
「新年早々、いそがしくなって」
「なんかすっきりしない顔をしてますね」
「そうかも……。顔に出てるかな」
おそらく病院で会ったと対照的だろう。
すこしだけ血色を取り戻した豊田は、引き継ぎのために綾成からの質問を一つひとつ丁寧に答えた。
疲れは見せないものの、声の張りはまだ回復していない。
───にも関わらず、清々しい表情をしていた。
休養に入る前の豊田は、体調の悪さをもどかしげにすることがあった。
それが退職を決めた今は、憑き物を落としたかのようにさっぱりとしている。
本当に豊田はいなくなってしまうのだ。
綾成は、『楢崎さんとグリーングラスを頼む』と豊田にいわれた言葉をまだ消化しきれていない。
『八名井さんが理解してくれてよかったけど、西門には悪いことした。全然、勘がはたらいてなかったんだな』
終わった過去を振り返るかのような淡々とした口調が綾成にはつらい。
この上気苦労をかけても仕方がない。湊もふくめた足立の件を詳しくは話せなかった。
「ここで美味いもん食べて、しゃっきりして会社に行きます」
「なら、シェパーズパイは多めにサービスしますね」
「ああー、嬉しいな。元気でます」
土日でワンクール十三本ぶんのシナリオを読み込まないとならない。ふだん手を抜いているつもりはないが、やはり真壁相手は気が抜けない。できれば原作も読んでおきたいが、そこまではたどり着くかどうか。
強い風に追い立てられるように歩いて、会社へ入った。
ちょうど湊が身支度をしているところで、綾成の姿を見ると安心したようだった。
「戻ってくるつもりなんですけど……」
「今日はいいから。深津さんに無粋な真似すんなよ」
「無粋……、いかにも私がやらかしそうなんですけど」
「仕事があるから帰るとか、明日やるんですみませんとかいうな」
「え、ダメですか」
「───シラけるだろ。やっちまっても湊のキャラなら一度は許されるけど、次は気をつけること」
「がんばります……」
緊張しているようだが、それなりに楽しげに出ていった。
足立と湊の余計なやり取りは、深津の知るところではないと見ている。この機会に打ち明けて、一般的な反応を知っておいてほしい。念のため、深津にそのあたりを匂わせるメッセージを送っておく。
湊を見送った綾成は、サーバに入っているデータを片っ端からからチェックしていった。
生真面目な湊らしく、設定整理の見た目はそう破綻していない。
足立のプロップ設定のフォルダを衝動的に削除したくなったが、なんとか堪える。湊がやらないと混乱してしまう。
集中力が切れたところで、作画演出室に顔を出した。
とうぜん深津は不在で、真壁は自宅作業、浅見だけが黙々と机に向かっていた。
綾成に気づいたが、片眉を上げて作業を継続する。クールで格好いい。
年が明けて初めて顔を合わすアニメーターもいて、挨拶を交わす。
「聞いたよ、豊田さんの話! 具合はどうなの?」
「術後は問題ないって」
「辞めちゃうんだね、まさか独立じゃないよね?」
「それはあり得ない」
「だよね。業界にいるなら、グリーングラスから出るメリットなんてないし」
単に話題にしているだけの者もいれば、真剣に受け止めている者もいる。
席へ手招きしてくれた中堅アニメーターは、豊田から連絡を受けたという。
「西門を手伝ってやってくれって。心配してた」
「……気遣いの人なんですよね、豊田さん。この先、よろしくお願いします」
「今やってる作品は三月で終わるからさ」
そう口にしたからには、必ず手伝ってくれる人だ。
とはいえ、プロップに関しては早急に人を探さないとならない。社内ではどうにもなりそうになかった。
フロアを移動した撮影室はローテーションで休んでいるため、土曜でもほどほどに人がいた。
「西門さん、ちょうどよかった」
撮影チーフの佐山に声をかけられた。
「出勤日ですか」
「予定よりカットが入ってないんだけどね」
一月からオンエアスタートした作品は、なかなかに厳しいスケジュールらしい。
「なにかあります?」
「真壁監督の作品だけど、粟野でいこうかと思って。本人は大いに乗り気」
「粟野くんか! ありがとうございます」
グリーングラスの撮影スタッフの中では図抜けたスキルを持っている若手だ。今日は休みのようだ。
「若いけど、真壁監督も納得してもらえると思う」
「粟野くんも、やりがいあるんじゃないかな」
「やり切って旅立っていきそうなぐらいだけどね」
「それは───、如何ともしがたい」
撮影の主流であるAfter Effectsはもちろんのこと、まだ他社がつかっていなかったCINEMA 4Dなどの新しいソフトも試験的にどんどん取り入れ、先進的な画面をつくりだしている。ソフトの開発会社からも講演参加の依頼が来るほどだ。
グリーングラスでの仕事に満足したら、あるいは満足し切れず外の世界へ羽ばたいてゆきそうな勢いがある。
「……本人がその気になったら止められませんね」
「延いては、グリーングラスや業界全体のプラスになるかもしれないからなあ」
「その時は、彼とうまくつきあっていけるようにしないとならないですね」
「まだ先か───、あっという間か」
週明けに真壁たちに話をする約束で、制作室に引き上げようとした。仕上げ室を覗いてみると、撮影入れするための検査作業で鬼気迫る様子だったので、声はかけずにおく。
廊下で立ち止まって週明けの予定をスマホに入れていると、琴未が早足でやって来た。ちょうど出社したところらしく、まだコートを着ている。そのテント型をしたコートのポケットから手袋が覗いていた。
「ニシさん、お疲れさまです。出勤?」
「永井こそ、呼び出しか」
「ヘルプが欲しいっていわれちゃった」
「予定中止?」
「深津さんの女子会に参加するはずだったのにー」
「ああ……、間に合うといいな」
「なんか無理っぽい、仕上げ上がりがよくなかったみたいで、だから時間かかりそう」
「また次、組んでもらえよ」
そうですねえ、とため息をついた琴未は、スマホを操作していた綾成の手を注視した。
「ニシさん、その指輪おしゃれ!」
右手の薬指に、曽祖父のトリニティノットの指輪をしていた。みっつの結び紐の組み合わせが連なった、カジュアルなデザインだ。
「もらいもんだよ」
「えー、オンナですか〜」
「どんなオンナだよ。正月に、家族から」
つと手を伸ばした琴未が指輪ごと綾成の指をなぞった。
「───?」
こんなことは珍しい。手のひらを裏返して、じっと検分している。
「似たようなのはどこかしらで売ってるよ」
「ちょっと欲しいかも。高いんですか?」
「ピンキリだろ」
「ふうーん」
口をすぼめた琴未は、いつもより化粧がしっかり目なのか、頰が紅い。
「オトコに買ってもらえば?」
「アクセサリーをオトコに買ってもらうとか、ごめんです! 誰かさんがくれるんならいいけど」
「おれはやらん」
形見とは口にしないでおく。
「予定を変更してまで仕事に勤しむ私に、薄情ですねえ」
ふと心配になった。
「───だいじな予定は変更すんなよ?」
もし、江藤が約束を取りつけたときに同じようなことがあっても、琴未は仕事を優先させるだろう。
「そんな予定、ないですもん。それじゃ」「お疲れ、がんばれよ」
綾成の手を離した琴未の体温はすこし高めだった。
オトコ嫌いの節すらある琴未が、直接的に綾成へ触れてくるのは初めてに近い。
きみょうな違和感が残った。
深津から電話があったのは、綾成が帰宅してしばらくたってからだった。
そろそろ二十三時になる。女子会はいまだ継続しているらしい。
『西門くーん、話聞いたよう!』
いつも陽気な人なので、酒のせいなのかどうかわからない。
「誰に、なにをですか」
『可愛い女子たちに、いろいろー。湊の件はわるかったねえ、あたしとしたことが』
深津の背後にその女子たちがいる気配がする。
「いえ、深津さんに謝られるようなことはまったく───」
『気づけなかったなんて、悔しいったら! 足立の悪口、堂々といいふらしてやるぅ〜』
十九時開始の女子会だったはずだからかれこれ四時間、やはり酔いが回っているようだ。
おそらく湊の声が『深津さん、私が鈍かったんで!』と、とりなしている。
『湊の不名誉になるから、悪口はヘタクソってことだけだよ!』
「まあ、陰口にならないならいいですよ。おれも聞かれたらそう答えるし」
新規のクリエイターをつかう場合、他社に評判を聞いて確認するのはごくふつうだ。
『西門くんがヘタクソって断定した〜、ホラホラ聞いた?』
スピーカーで聞かされているのか、賑やかな女子たちが楽しそうに笑っている。
『そこで、西門くんにはあたしの隠し球アニメーターを紹介します!』
「お、マジですか」
『マジでーす。今はあたしも酔っ払ってるから月曜に詳しく話するー。忘れないように先にいっとくけど』
「忘れませんよ。ガチな話ですよね?」
『『『ガチでーす』』』
さざめく楽しげな声の女子たちが何人いるのかわからないが、その面子の中に含まれているのだろうか。
面倒見がいい深津だが、仕事には厳しいので紹介相手に心配はない。
「来週、楽しみにしてます」
『まかせてー』
酔っ払いの勢い電話にしては、実のある話だった。
明るい女性たちの空気に触れて、そうした力を借りればこの先もなんとかなりそうな気がした。