1 キャリア十年目
西門綾成がアニメ業界で働き出して、そろそろ十年になる。
海を渡って移住してきた曽祖父譲りの長身と彫りの深い顔立ち、学業優秀と、ご近所さんでは目立つ存在だった綾成が、ブラックと名高い業界に飛び込むと決めた当時、否定的な反応が多かった。
アニメ業界の冗談のような安月給、ギリギリな社会保障、拘束時間の長さ、理不尽すぎる扱い───はリサーチ済みだ。
初任給十六万、試用期間中は保険なしって、マジか。
住宅手当もないのに都内に引っ越せとはどんな無理ゲーだよ。
そんな無茶、逆に若いうちにしかできないだろ。
「大学行ってまで……、就活失敗したの?」「アニメって芸術とは違うんじゃね?」
芸大の芸術学科は学歴として地味に高い。
もちろんそんな外野の声が綾成や、独立独歩でおおらかな家族に影響を与えることはなかった。
しかし、周りにアニメ業界へ就職した者などいないから、就職活動のノウハウはさっぱりだった。
制作の応募に絵心がアピールになるかとポートフォリオを用意してみれば、「アニメーター応募の間違い?」「なんで制作?」とフランクな面接で首をかしげられる有様だった。
そうして無事、「アニメをやろう」と心決めた劇場作品『モノクローム・エントロピー』を制作した会社へ就職した。
「なにもうちの業界でなくたって……。親が泣くよ」
制作現場では綾成に限らず、高学歴保持者は同じようにいわれる。
あたりまえだが、心配していっているのではない。むしろ嫌味だ。
せっかくの学歴をこんなブラック業界に無駄遣いするなんてという意味と、へんに学歴がある奴は頭でっかちで使えないという両方の意味での哀れみの目。
しかし綾成は芸大内の「お勉強できれば入れる科」な白眼視ですでに偏見には慣れている。
芸大全体では、一般企業に就職するのが敗けとされる節すらある。それも十年経てば創作活動からほとんどが退いてしまのだが。
「なんでこの業界入ったの?」
アニメーション系専門学校卒なら踏まえている基本用語がすっぽ抜けているし、声優やスタッフなどのオタク的知識に欠けていたためか、はじめのうちはうさんくさい目で見られた。
「美大出のスカした男」「アニメ会社に不釣り合い」「なにか勘違いしてるんじゃない」
遡れば美大予備校に通っていた高校生の頃から、プライドの高いクリエイターには慣れている。
「SFがすきで───」
このとっかかりで、まず相手の気を惹くことができる。
綾成の曽祖父はSFやファンタジー映画を好む人だった。
綾成が接していた頃のその人は、波乱万丈な半生を経て、神奈川の海のそばで穏やかな日々を過ごしていた。
一家で移住し、青年期までを苦労した米国を舞台にした映画より、祖国をロケ地として別世界としての一枚フィルターをかませた作品の方が、生々しくなかったのだろう。
本来なら字幕の必要もなかったろうに、曽孫の綾成を愉しませようと吹き替えで観せてくれた。
陽のあたるリビングで、青灰色の瞳に見守られながら異国や異界の画面を旅した記憶は、いつまでも消えない。
「───『モノクローム・エントロピー』を作った会社で働きたかったんです」
素直に答えれば警戒心がすぐに緩むみ、同じ側の人間として認めてくれる。
他のアニメ作品に疎くても、日本人作家原作のハードSF『モノクローム・エントロピー』は何十回も観たし、曽祖父の影響で親しんだSFなら小説も映画でも古今東西いくらでも語れた。
それに、実力者が正義の世界だ。
「顔採用かと思ったよ」とすこしばかり容姿で注目される男がいても、ネタ扱い程度のことだ。
外見から色眼鏡で判断されたり、才能を妬みあったりするより、綾成には気楽だった。
芸大生に輪をかけてシャイなアニメーターや演出家、てんでバラバラの主張を持つ各部署をまとめてゆくのは面白い。
とにかく非常識な勤務形態、不条理な要求ばかりの職場ではある。
しかし、才能のある者だけが揃っているわけではなく、凡才であっても見合うポジションで続けてゆける一面も持っている。
美大予備校時代にあと一歩の行き詰まりを感じていた頃に、周りから薦められて洋画科から芸術学科へ進路変更した綾成には、分業制ゆえのパワーバランスに優しささえ感じた。
そう経験のなかった計算ソフトや画像処理ソフトも、それで効率が上がるなら人より進んで活用する。
進行から始まって、デスク、ラインプロデューサー、プロデューサーと役職としてはステップアップした。
「なんでもしれっとやっちゃって、ムカつくイロオトコ!」
いつからか後輩の永井琴未が、面と向かって噛みついてくるようになった。
彼女は制作ではなく、仕上げ部署にいる。色彩設計としては綾成がプロデューサーをする作品が多い。
「しれっとはしてないだろ、必死で走り回ってるのに」
「仕事だけじゃないですよね〜。有能なプロデューサーはおモテになって」
「ふつうだよ───」
「ふつうならそんなにしょっちゅう彼女が変わったりしませんーーー」
どうしても優先順位が低くなる恋愛は、あまり長続きしない。
「そんなに続かないならオンナいらなくないですか!?」
「今度こそうまくいくかなって」
「うそくさ〜」
人並みの暮らしはできるようになったものの、薄給でハードワークなことに変わりはない。
三十を超えて、相手の期待値が高くなるぶん、優先順位の低い恋愛を続けるのはむずかしい。
つっかかってくる琴未といえば、前の彼氏と別れ際に揉めたのが尾を引いているらしい。
「当分は二次元で!」と腐女子活動に勤しんでいる。イベントやら二次創作やらで立派なリア充っぷりだ。
物怖じしない明るさを持った琴未は、部署を問わず人気がある。そろそろ新しい恋愛に踏み出せばいいのにと思う。
「今はひとりで充分楽しいんですーぅ。ニシさんみたいにモテないし器用じゃないし」
器用でないから仕事にかまけて関係が破綻してしまうのだし、だから琴未に怒られる……というループ。
もう数年に渡ってそんなことが続いている。
キャリアとしては順調かもしれないが、順風満帆だったわけではない。
まず、最初の就職先だったハワードプロダクションは倒産してしまった。
運良く今の勤め先であるスタジオグリーングラスの社長に拾ってもらえたが、綾成とともに相当数のスタッフを引き取ってもらった借りは大きい。アニメーターはもちろん、琴未を中心とする仕上げ部はほぼ全員が移動した。
社長の楢崎は「ニシが勝手に借りてるだけだ、貸したつもりはねえよ」と鷹揚だが、彼が早い時期に耳打ちしてくれた情報のおかげで未払いを避けられたのだ。不義理なことはできない。
業界有数の会社を経営する楢崎の腕は尊敬の念を持っていたし、入社してみて尚のこと敬愛すべき人だと思うようになった。
ただ、ゆくゆくは気の合うスタッフと小規模な会社を起こして作品を選んでやっていきたいという、ささやかな(けれどハードルの高い)希望は遠ざかってしまった。