3話
あたしがお父様の部屋を訪れてから一時間程が経った。
お父様は掴んでいた手を放すとふうとため息をつく。眉間を揉みながら窓の近くにある応接セットのソファに腰掛ける。
「…ヨハンナ。すまん、取り乱してしまったな」
「いえ。気になさらないでください。あたしも殿下から西和国に帰れるようにすると言われて。浮かれていました」
「ヨハンナ。お前は西和国に帰ったとしても他のお妃候補の親達から命を狙われるぞ。断ったとしても皇帝陛下や妃殿下はお認めにならぬだろうしな」
お父様の言葉にあたしはすうと背筋が冷えていくのを感じた。
「お父様。フエリックス殿下は手続きをしてくださっているのに。何故、そんなにあたしが帰ると角が立つのですか?」
「…お前がフエリックス殿下に嫁ぐために皇国に来た時に陛下と約束をした。お前を妃にする代わりに西和国には多額の援助と皇女殿下を嫁がせるというな。お前の実の両親にもそれを説明してある。二人はお前を手放すのも仕方ないと言っていたが」
「お父様。父さんと母さんに会ってお話をしたんですか?」
「ああ。話をした。実の両親は二人ともなかなかの人格者だったよ。お前を意外とあっさりと手放したから。もっとあくどい人間かと思ってたんだが」
「お父様。あたしの両親はいい人たちですよ。兄弟も皆仲が良いですし。けど、あたしはフエリックス殿下の妃にはなれません。だから、西和国に帰してください。何だったらあたしを皇女殿下の侍女にしていただいて構いませんから」
にこりと笑って言う。
お父様はあたしを悲痛な面持ちで見つめた。
「ヨハンナ…」
「お父様。お願いします」
あたしは頭を深々と下げた。お父様は何も言わない。
しばらく沈黙が部屋に下りた。
「仕方ない。わかった、お前を西和国に帰そう。フエリックス殿下と二人で陛下を説得してみよう」
「ごめんなさい」
「謝るな。二年と短い間だったが。お前と過ごせて幸せだったよ」
お父様はそう言うとあたしに頭を上げるように言った。
あたしは頭を上げた。お父様はふいにソファから立ち上がりあたしのすぐ近くまでやってきた。
ふわりと体に腕が回され、ぐんと視界が上がる。お父様に縦向き、小さな子みたいに抱っこされていた。
いつもは厳しい表情を浮かべているお父様だが。今は優しい笑みを浮かべていた。
「…ヨハンナ。いや、ヨウコ。お前に無理を強いてすまなかった。フエリックス殿下がヨウコとの結婚を嫌がったのはお前の年もそうだが。無理矢理、親元から引き離したからだ。今はまだ婚約だから解消さえしてしまえば何とかなる」
「さっきは命を狙われるとか物騒な事を言っていたのに。いきなりどうしたんですか?」
「はは。命を狙われるというのは嘘ではないぞ。まあ、お前が国に帰る時はわたしとフエリックス殿下、我が家の騎士達も同行する。だから、大丈夫だと言いたかったんだ」
はあと言うとお父様は笑みを深めた。
抱っこをしたままでお父様はあたしの頭を撫でた。手つきは慎重で優しいものだ。髪をぐしゃぐしゃにしない程度で何度も撫でる。
あたしはしばらくお父様に抱っこをされたままでいたのだった。
あれから、翌日に皇宮へと向かった。馬車に乗る。
車内には付き添いでお母様と兄のオルキスーオル兄様も乗っていた。
お母様は薄い藍色の上品なドレスに髪も結い上げて皇宮に行っても大丈夫な格好をしている。あたしもお母様が見繕った可愛い黄色のシフォンをふんだんに使ったドレスを着ていた。髪も上の部分だけを結い上げて小さな琥珀を散りばめた花型のバレッタでまとめていた。
髪の色に近いのに合わせたのだ。お母様と兄様は緊張した面持ちをしている。
「…ヨハンナ。フエリックス殿下に失礼のないようにね」
「ええ。そこのところは抜かりなくやります」
「まあ。あなたはしっかりしているから心配はしていないけど。それでもやっぱりお別れするのは寂しいわ」
お母様はそう言いながらふうとため息をついた。
「母上。ヨハンナが自分で決めたことです。何も言わないでおきましょう」
オル兄様がお母様を励ますように言う。あたしもお母様に笑いかけた。
「お母様。この皇国を離れてもあなた方のことは忘れません。もしよろしければ、お手紙を出しますから」
「ヨハンナ。あなた、わたくし達を忘れないでいてくれるのね。けど、まだお別れを言うのは早いわね」
「そうですね」
お母様は目をハンケチーフで軽く押さえた。お化粧が取れないように強くは拭かない。さすが、貴婦人といえた。
そう話している間に馬車が停まった。がたんと音がする。
扉が開かれて先に兄様が降りた。後であたしが降りる。兄様は手を差し出してくれてそれに掴まりながら馬車から降りた。お母様も御者役をしていた騎士の手を借りて降りた。
皇宮の門をくぐってお母様と兄様の三人で皇宮の中に入る。門兵は話を通してあったのか黙って通してくれた。騎士が後ろに付き従う。
迎えにフエリックス様付きの侍従が廊下で待っていた。
「おや。思ったより早いお越しですね。ようこそいらしてくださいました。ヨハンナ様、奥方様。オルキス様も」
「はい。お久しぶりです。ウエスティンさん」
「わたしめの名前を覚えてくださっていたとは。では殿下の執務室にご案内いたします」
侍従ことウエスティンさんは頭を下げてから踵を返した。そのまま、静かに歩き始めた。あたし達は後に続いたのだった。