第八章 ベールに忍び寄る影 -2-
愉快な灰色熊もとい、イグナーツの語った内容は、驚きに満ちたものであった。
「おれは知っての通りヴァイスブルク家とマジャガリー王国を裏切っている。当然、粛清の追手がかかっているが、それが聖典教団だ。聖典の民って言っても、ふたつある。元々アル・クドゥスに住んでいたミズラヒ人。それと、ハザール海の北方に住んでいたサビル人だ」
それは知っているが、どう違うんだ?
「ミズラヒ人の肌は黄色いが、サビル人は白い。だから、この辺りではミズラヒ人は目立つので大人しくしている。逆にサビル人は見分けがつきにくい。ゆえに、イフターハ・アティードの影として働くのはほとんどこのサビル人だ」
聖典教団だと隠して潜んでいると?
そりゃ厄介だな。
「おれもこのサビル人の暗部に随分追っ掛け回されてな。こんな格好をしているのも、そのためだ。好きでしているんじゃない」
「似合ってるのに」
「放っとけ! それより、そのおれを追っ掛け回していた暗部の一人を取っ捕まえてな。ついでに情報を吐かせたら、このフェストについて喋ったんだよ。イフターハ・アティードが、フェストを潰そうと企んでいる。また、それに乗じてアラナン、お前を消そうとしているとな。実際、予選組の中には、サビル人の刺客がいるらしい。気を付けろ」
ぼくを消すって、随分目を付けられたものだな。
確かに、今回の一連の企みは大抵ぼくが潰しているけれどさ。
何かこう、イベントのときに一緒に襲撃を仕掛けるのやめてくれませんかね。
楽しめないじゃないか。
「ま、そういうわけだ。いいな、学院の爺さんにも伝えろよ。はあ、こんな話聞き込むんじゃなかったぜ。面倒臭い」
ぼやきながらのそのそと熊が去っていく。
そうか、わざわざ危険な身を晒して知らせに来てくれたんだもんな。
こいつには襲われたりもしたけれど、意外といいやつじゃないか。
「イグナーツ、有難う!」
イグナーツはちょっと立ち止まると、背中を向けたまま左に顔を背けた。
着ぐるみで顔は見えなかったが、ぼくにはそれがイグナーツの照れ臭そうな仕種に見えた。
熊め、可愛いところあるじゃないか。
とりあえず、屋台を冷やかしているみんなのところに戻る。
何故か人だかりができているので覗いてみると、見慣れたポニーテールの少女が、筋肉質の巨漢と羊の串焼きの食べ比べをしている。
──どう見ても、アンヴァルとストリンドベリ先生だ。
ぼくはハンスを捕まえると、事情を尋ねた。
「ああ、ストリンドベリ先生は去年の串焼き大食い大会優勝者でね。ちょうど去年の優勝について談話を求められていたんだ。そうしたら、それを聞いてアンヴァル嬢が挑戦すると言い出してさ」
すでに両者の皿には、空の串焼きの串が数十本積み上がっている。
観客も熱を入れて二人に声援を送っており、止められる状況にない。
全く、ファリニシュでも止められなかったのかよ。
いや、敢えてアンヴァルに限界まで食べさせることで、大人しくさせる作戦か?
「あ、主様お帰りなんし」
「ああ、イリヤ。──あれは、止められなかったのか?」
「観衆が大層騒ぎなんしてなあ。わっちにもどうにも……主様にご心配掛けて申し訳なさんせん」
「あ、いや。構わないが、ちょっといいか?」
ファリニシュを呼び寄せると、みながアンヴァルの大食いに集中している間に事情を説明する。
聖典教団の計画について聞くと、美しい銀の狼は珍しく眉間に皺を寄せて考え込んだ。
「何をしたいかはわかりんしたが、何をしてくるかがわかりんせん。火を付けなんすか、人を襲いなんすか……ええい、考えるんは御老人ににお任せしゃんすか」
ファリニシュとオニール学長は念話で会話ができる。
誰とでもできるわけじゃなく、虚空の記録に接続できる者だけだ。
ぼくも接続はできるけれど、残念ながら念話はまだ教えてもらっていない。
なので、ファリニシュからオニール学長に説明してもらった。
恐らく、学長から冒険者ギルドや評議会にも話が回るだろう。
評議会には余りいい印象はないけれどね。
特にベールの市長フロリアン・メルダースにはね。
ブライスガウ伯が去った後は掌返したように愛想使ってきてさ。
狡猾な蛇って印象は拭えない。
一通り報告を済ませて戻ると、大食い対決は決着がついていた。
何と、あの巨漢のストリンドベリ先生が敗れ、アンヴァルが勝利を収めたのだ。
舞台に上がったアンヴァルは、大食い大会の主催者に商品の串焼き引換券を貰って歓びの踊りを踊っていた。
アンヴァルのファンのおっさんが大量に発生しており、舞台の周りはえらい騒ぎになっている。
「あれは置いていったらまずいのかな」
思わずファリニシュと顔を見合わせる。
彼女もそう思っているはずだ。
だが、ぼくよりファリニシュの方が大人であった。
「わっちが引き取って来なんす。主様はみなと宿に帰りなんし」
「──有難う。そうさせてもらうよ」
ハンスたちも、大分疲れているようであった。
ぼくが帰ろうかと提案すると、ほっとしたように頷く。
マリーやジリオーラ先輩も、流石に人混みにぐったりしていた。
「ベールはフラテルニアほどの人混みはないと聞いていたんだけれどねえ」
「甘かったですね、ハンスさん。フェストの人出を舐めてました」
背の低いアルフレートは、余計に大変だったであろう。
「悪かったわねえ、アルのことまで考えてなくて」
「い、いや、大丈夫ですよこれくらい! マルグリットさんの方こそお疲れでは」
ぼくたちに比べれば年下とはいえ、アルフレートとマリーは同い年だ。
気を遣われて逆に空元気を出している。
見栄を張りたいか、アルフレート。
ジャンが取っていてくれた宿まで戻ると、女性陣は公衆浴場に出掛けていった。
ファリニシュとアンヴァルも付いていったから、危険はないであろう。
一方、男は寝台に転がったまま大の字である。
ぼく、ハンス、カレルでひとつの部屋で、三人とも横になって動かない。
「ハーフェズのやつ、ちゃっかり予選に出るのかよ」
ぼくから話を聞いたカレルが口を尖らせる。
「ハンスも出たらいいんじゃないの。選抜選で、納得いってないんだろう」
流石に親友だけあって、カレルはよくハンスを見ていた。
初等科で当初トップを走っていたハンスは、今でこそぼくやハーフェズに差を付けられているが、決してそれをよしとしていない。
しかも、今回は帝国推薦で憧れの黒騎士も来るのだ。
出たくないはずがなかった。
「名だたる冒険者や各国の騎士が来るんだ。腕を試してみたいのは確かだね」
「まあ、エリオット卿とか、ハーフェズに当たったら運がないと思うけれどさー。予選の組み合わせによっては本選いけるんじゃないの」
カレルは気楽に言うが、予選に来る冒険者や騎士の中にも、学院の卒業生はいるのだ。
研鑽を積み、独自の境地に達している者もいるであろう。
だが、それだけに遣り甲斐はあるはずだ。
「うん……よし、やってみようか。ちょっと、もう一回ベール競技場に行ってくるよ」
決意を固めた表情でハンスが立ち上がった。
扉を開け、階段を降りる音を耳にしながら、ぼくは本選でハンスに会えるといいな、と思った。




