第一章 黒猫を連れた少女 -8-
「このガキ、人が親切心で言ってんのが、わかんねえようだなあ! この疾風のヴォルマー様が、礼儀というやつを教え込んでやろうか!」
激昂した中年男が、右手を振り上げて殴り掛かってくる。
やれやれ、穏やかにお引き取りを願ったのに短気なやつだ。
え、とてもそうは見えないって?
ま、主観の相違はよくあることだ。
それにしても、疾風のとか言うわりに随分とろいしおまけにテレフォンパンチだ。
仕方ないから、身を沈めて素早く足を刈る。
上体を崩したところを頭に手を当て、そのまま地面に口づけをしてもらった。
鈍い音がして中年男が転がったが、体重は乗せてないから鼻を潰したくらいだろう。
歯応えのないやつだ。
エアルの森の中で死ぬような目に遭わされながら鍛えられたぼくが、この程度で何とかなると思ったのか。
「ぼくはこれで十分だ、と言った。その意味がわからないほど莫迦なのか?」
中年男の後ろで連れらしき男女の二人組が青い顔をしている。
ぼくは中年男に掴まれた肩のあたりをわざとらしく数回はたくと、ずいと一歩踏み出した。
青い顔の男が一歩下がったので、ぽんぽんとそいつの肩を叩いてやる。
「ぼくは学院の入学生だ。セルトの秘儀を学んだ魔術師でもある。呪文を使わせる事態にならなくてよかったな。そいつは鼻が潰れただけだから、早く手当てをしてやれよ」
そのままスイングドアを開けてギルドを出る。
背後で中年男が豚のような悲鳴を上げていた。
鈍いやつは悲鳴まで鈍い。
けちが付いたので、心を平穏にするために聖女修道院を目指す。
曲がりくねった狭い道を南下していくと、菩提樹が繁る公園が見えてきた。
散策にはよさそうな公園だな。
今度マリーを連れてきてもいいかもって、それは気が早いか。
裏道みたいな小路を更に川沿いに進むと、ようやく赤い屋根の聖女修道院が見えてくる。
黒と白の修道衣に身を包んだ修道女たちが掃除をしているから、間違いないだろう。
隣は市長のベルナルド・シュピリがいる市庁舎か。
マリーとジャンはまだ市長と会っているのだろうか。
「マリーなら、大魔導師に会いに行ったわよ」
おっと、黒猫さんじゃないですか。
相変わらず神出鬼没ですね。
ぼくが気配を感知する前に接近してくるって、そう容易いことじゃないはずなんだけれどな。
「市長が言っていたわ。大魔導師にマリーのフラテルニアまでの護衛を頼んだら、アルビオンの魔術師を付けるって言われたって。それ、貴方のことでしょう?」
何だそれ。
確かにぼくのことだろうけれど、ぼくは大魔導師と面識なんてないし、マリーの護衛を命じられた記憶もないけれどな。
「記憶にないようね。でも、大魔導師のやることだものね。思いもよらない魔法を使ったんじゃないかしら」
そうかもしれないな。
でも、シピさんや。
君どう見てもぼくの考えていること読んでやしないかね。
「詮索はよくないわ。猫には、ましてや女には秘密が多いものよ」
にゃあと鳴いてシピが走り去っていく。
美女ならともかく、猫に言われてもなと思うが、シピに読まれたらまた何か言われそうだ。
油断すると足下にいやがるからな。
それにしても大魔導師か。
まあ、魔法学院の学長なんだし、そのうち会えることもあるだろう。
それより、聖女修道院は中の見学はできないのかな。
折角来たんだから、聖修道会に付いても知っておきたいところだ。
アルビオンの聖公会は、ルウム教会と大差はない。
ルウム人のための宗教ではなく、アングル人のための宗教になったと言うだけで、教義は似たようなものだ。
あれは、ぼくらセルトの伝統を受け継ぐエアル人にとっては敵である。
それに比べ、ヘルヴェティアから大陸西部に新しい教えとして広がりつつあるこの聖修道会はどうなのか。
気合を入れて近寄ってみたが、聖女修道院は男子禁制で入れなかった。
男子のためには、リマト川を渡った対岸に、フラテルニア大聖堂があるらしい。
そこがウルリッヒ・ベルンシュタインのいる聖修道会の本拠だと言うことだ。
まあ、気合を入れて来た分肩透かしを食ったので、フラテルニア大聖堂は今度の機会に取っておく。
結構時間も経ったし、今日は宿に帰るか。
晩飯を食いそびれたら困るしな。
菩提樹亭に帰ると、日も暮れて晩飯にはちょうどいい頃合いだった。
ビールと夕食を頼んで席に座ると、熱々の豚肉のソーセージが、付け合わせのキャベツの漬物と一緒に出てくる。
ぱきっと音を立ててソーセージを噛み、ビールを喉に流し込む。
ヴィッテンベルク料理らしいが、アルビオンの料理より旨い。
溢れる肉汁が、舌を旨味で満たしてくれる。
アルビオン料理は単純に煮たり焼いたりしただけのものが多いからな。
王都で食べた一流の宿の料理もたいして旨くなかった。
次にパンと魚料理が出てくる。
白ワインとチーズを煮込んだ鍋も一緒だ。
パンは、小さくスクエアに切ってあり、細いフォークで刺してチーズ鍋に浸して食べろと言うことらしい。
チーズフォンデュと言うヘルヴェティアの料理だ。
チーズ鍋は白ワインだけでなくニンニクも混ぜ込んであり、パンを絡めると絶品だ。
この国のチーズ料理は本当に侮れない。
白身魚のムニエルはレモンソースがかけられており、濃厚なチーズ料理と合わせてくどくならないようにあっさりとした味に抑えられていた。
この宿の料理人の腕は大したものだ。
夕食は銀貨二枚だった。
この宿は老舗だけあってフラテルニアではかなりの高級宿だろう。
料理は旨いが、値段もそれなりに高い。
庶民には手が出ない価格帯だろう。
宿泊客も、金持ちそうな商人が多い。
夕食後、自室に帰ったぼくは、寝台の上に横になってシピの言ったことを考える。
少なくとも、マリーの秘密は市長と大魔導師を動かす程度には重大らしい。
ロタール公の嫁云々程度なら、フラテルニアの実力者が動くなんてことはないだろう。
その上、大魔導師はマリーの護衛にぼくを付けると言ったらしい。
だが、ぼくがマリーの馬車に乗ったのは偶然だ。
いや……偶然か?
ぼくがマリーやジャンと出会ったのは、確かアルマニャック王国のレミだ。
有名なルウム教会の聖処女大聖堂がある都市である。
この大聖堂で、アルマニャック国王は戴冠式を行うのだ。
大司教領であり、カンパーニュ伯爵領の中に存在する。
並びとしては西側から、アルトワ伯爵領、カンパーニュ伯爵領、ロタール公爵領となっており、レミ大司教領はカンパーニュ伯爵領の西部にある。
位置的にはアルトワ伯爵領を出発し、ロタール公爵領に入る前にぼくと合流したと言うことだ。
なかなか恣意的なものを感じるな。