第六章 ツェーリンゲンの狂牛 -10-
勝ち誇った表情で、ユルゲン・コンラートが歩を進める。
ぼくが剣を失ったことで、もう勝ったつもりなのか。
増幅強化でぼくの肉体が強化されていることにも、まるで気付いていない。
「死にやがれ、このちびっ子が!」
ユルゲンが大剣を振り下ろす。
いや、振り下ろそうとした。
彼が振り下ろすより速く、ぼくは一歩前に出る。
そして、左手の肘を止めて押さえたのだ。
「膂力が自慢のようじゃないか、ユルゲン」
顔を赤くして腕を動かそうとするが、増幅強化によって底上げされたぼくの筋力がそれを許さない。
「どうした、それで精一杯か。ツェーリンゲンの狂牛なんて大層な異名が泣くぞ。仔猫に改名した方がいいんじゃないか?」
「ふ、ふざけるなあ!」
憤怒で泡を噴きながら、ユルゲンは大木のような足で前蹴りを放ってくる。
ぼくは更に一歩踏み込むと、軸足を払いながらユルゲンの胸を押した。
地響きを立てながら、ユルゲン・コンラートが仰向けに倒れた。
流石の筋力自慢も、鎧を着ているこの状況ですぐには起き上がれない。
好機とばかりに攻め込もうとしたぼくは、しかしそこで足が止まった。
「なにっ」
ぼくの意志で止めたのではない。
大地が急に泥沼と化し、ぼくの足を絡め取ったのだ。
泥濘化だと!
ユルゲンの仕業ではない。
明らかな部外者の干渉、しかも禁じられた妨害魔法じゃないか!
「やってくれるね……!」
何とか泥濘化から脱出したときには、ユルゲンは起き上がっていた。
「殺す!」
ユルゲンの目は血走っており、完全に血が昇っている。
いやいや、怒りたいのはこっちだぜ、ユルゲン・コンラート!
「汚い手を使ってくれるじゃないか。これが、ヴィッテンベルクの帝国騎士の戦い方かよ! お前の師匠の黒騎士ってのは、こんな戦い方を教えたのか!」
「帝国騎士に敗北の二字は許されんのだ。負わされた恥辱は、血をもって購う他にないのだよ、ふはは!」
ちっ、このでかぶつが!
思わず悪態が口を突いて出そうになる。
いけない。
かっかしているようだな。
冷静にならないと、いい判断はできない。
何か心を鎮めるものはないか!
そのとき、ふと観客席のアンヴァルが目に入る。
そして唐突に、さっきの控室でのあいつの莫迦な科白を思い出した。
ああ、気が抜けるぜ、ほんと。
でも、助かった。
お陰で、頭に昇った血は下がったようだ。
「来いよ、ユルゲン・コンラート。次の一撃で決めてやる」
前に出した左手で、ちょいちょいとユルゲンを挑発する。
すでに頭が沸騰している狂牛は、簡単に挑発に乗った。
「地獄に落ちるのは、お前の方だあ、アラナン・ドゥリスコル!」
鼻を鳴らしながら、土煙を巻き上げユルゲンが走ってくる。
だが、その動きはもう見切っている。
振りかぶった動作も、強化された視覚が全て捉えている。
そして同時に、再びぼくの足許に泥濘化の妨害魔法が飛んでくる。
同じ呪文かよ、芸のないやつめ。
二度そんな手が通用すると思うな!
すでに、ぼくの足許には、魔力隠蔽した魔法の糸が、網のように張ってある。
ぼくは、それを足場に泥沼をものともせず、振り下ろされる斬撃の内側へと入り込んだ。
「な……に!」
幾ら強化しているからって、素手で鉄の鎧を殴る莫迦はいない。
鎧越しに打撃を徹せるほどの境地にも達していない。
ならば、狙いはひとつ。無防備な顎だ。
一瞬体を沈め、地面から真っ直ぐ突き上げるように伸び上がる。
掌の骨で目の前に曝け出されたユルゲンの顎を撃ち抜く。
増幅された筋力で狂牛の顎を跳ね上げ、その反動が頸椎を揺らした。
ユルゲンの体が浮き上がり、そして力を失って崩れ落ちた。
顎の骨が砕け、頸椎にも損傷を負っているだろう。
見るまでもなく、戦闘の続行は不可能だ。
戦闘終了の判断を求めに、ブライスガウ伯の方に向き直る。
だが、ユルゲンの負けを認められないのだろう。
普段は固く結ばれたルドルフ・フォン・ツェーリンゲンの口が、大きく開いて閉じられる気配がなかった。
「医者を呼べ、フロリアン。見ての通り、アラナンの勝ちだ。これ以上の戦いは無用。以後、アラナン・ドゥリスコルへの手出しは許さ……」
「まま、待ってくれ!」
飛竜がぼくの勝ちを宣言しようとしたとき、呆けていたブライスガウ伯が慌ててそれを止めに入った。
「ユルゲンはまだ戦闘不能じゃない。まだやれる! すぐに立つから……」
「すぐに立つって……完全に失神してるぜ」
クリングヴァル先生がやってきた。
ユルゲンの傍らに膝を突き、容態を見る。
そして、改めて叫んだ。
「顎が砕けて呼吸も危険だ! 早く医者を呼べ、フロリアン・メルダース! ユルゲン・コンラートを死なせたいのか?」
メルダース市長が、狼狽えたようにユルゲンの父親を見た。
ルドルフ・フォン・ツェーリンゲンは、暫く歯を噛み締めて呻いていた。
二度、三度とユルゲンからぼく、そして飛竜へと視線を移す。
此処で騒ぎを起こしても、アセナ・イリグがいる限り無駄なことだ。
ブライスガウ伯の脳裏をかすめたのも、そんな計算だろう。
「全く、板金鎧くらい素手で割り砕け。師匠なら、手を触れた瞬間鎧ごと相手を倒しているぞ。相手が格上なら、狙いにくい顎なんてまず当たらないと思えよ」
ルドルフ・フォン・ツェーリンゲンが逡巡している間に、ぼくの隣で物騒なことを囁く人がいる。
思うんですが、比べる対象が間違ってやしませんかね?
「鋭意努力します」
基準はともかく、初めてユルゲンと会ったときのぼくだったら、魔術なしでは勝ち目はなかっただろう。
初等科の単純な身体強化を覚えただけだったら、五分五分かな。
あ、でも泥濘化食らったら負けてるね。
それを考えれば、シピやクリングヴァル先生には感謝だね。
「帰る! わしはフライスベルに帰るぞ!」
唐突にブライスガウ伯が叫び出した。
みんなきょとんとした顔をしている。
何だ?
この状況を放棄して、逃げるつもりか?
息子も見捨てることになるんだぞ。
「あー、伯爵閣下、ご子息は如何されるのでございましょうか」
フロリアン・メルダースの声が、会場に虚ろに響く。
だが、ブライスガウ伯は留まろうとはしなかった。
「知らん!」
伯爵は興奮して喚いた。
「そんな負け犬は知らん! 好きにしろ!」
靴音も高く、ルドルフ・フォン・ツェーリンゲンは立ち去っていった。
随従たちが、慌てて後を追っていく。
あの中に、ぼくに泥濘化を掛けたやつがいるはずだ。
だが、今更それを言っても仕方ないかな。
「では、勝利者はアラナン・ドゥリスコル君ということで。問題が解決してよろしゅうございましたな。警備兵! ユルゲン殿を運び出すのです。一応、治療は施しておきなさい」
何事もなかったかのように、メルダース市長が指示を始める。
え、あの伯爵は放置していいのか?
事務作業をこなすかのようにユルゲンを運び出させ、医者の手配をしている。
激昂して去った伯爵よりも、このベールの市長の沈着ぶりが何か恐ろしいな。
「ま、気にするな。お前はよくやったよ」
ぽんと、クリングヴァル先生がぼくの肩を叩き、片目を瞑った。
「だが、魔法の糸の魔力隠蔽はひどかったな。あれじゃ丸見えだぞ」
うん。全部お見通しだね。




