第六章 ツェーリンゲンの狂牛 -2-
朝方、眠い目を擦りながら学院に向かう。
昨日はひどい夜だった。
あの後、菩提樹亭にぼくらは雪崩込んだ。
マリーとジリオーラ先輩に挟まれたジャンは、結局学長に口止めされていたことを白状した。
どうやら、シュピリ市長はベールの連合評議会に呼び出しを食らっているらしい。
その理由が、ブライスガウ伯の抗議によるものだという。
伯爵の次男のバードゼックの領主が、学院の生徒に拉致された挙げ句に食糧もないままフラテルニア郊外で放り出されたというのだ。
うん、心当たりのある話だった。
それって、マリーを狙ったユルゲン・コンラート・フォン・ツェーリンゲンのことだよね。
あいつの父親が抗議だって?
ぼくが憤慨するより先に、マリーが爆発した。
ブライスガウ伯を許さない。
わたしが行って反論してやると息巻いたのだ。
だが、それはジャンが必死に止めたのと、ファリニシュが無断で学院を休めば退学になると脅したことで何とか収まった。
とばっちりはぼくに来たけれど。
何でぼくはベールに行けるんだ、ずるいと駄々を捏ねるマリーを宥めつつ、カレルの莫迦騒ぎにも付き合ったので、寝たのは夜明け前である。
菩提樹亭のアロイスとヴァレリーにも悪いことをしたな。
ぼくが旅立つと聞いて、夜遅く一階で飲むのも許してくれたのに。
さぞ煩かっただろう。
途中からはハーフェズもやって来たので、尚更騒がしかった。
あいつは、魔力を感知してシピの位置を特定するところまではできたという。
元々感知系はハーフェズのが上だったっけ。
だが、闇黒で影渡りの範囲を広げられると、位置がわかっても捉えきれなかったそうだ。
だから、魔法の手の魔力を隠蔽する訓練をしているらしい。
え、ダンバーさんに教わっているの。
むむ、それは負けてられないな。
そんな感じで夜通し騒いでいたので、絶賛寝不足中である。
学院の入り口に着いたときも、欠伸混じりだったのは致し方のないところだろう。
「ぶぶー、女の子を待たせた上に欠伸なんて、大減点です!」
学院の入り口に座っていたのは、プラチナ・ブロンドのポニーテールを揺らして怒る十代前半の女の子だった。
ええー、誰、この子。
ぼくは手紙と馬を受け取りに来たはずだよね。
「はい、爺いからの手紙です。スヴェンの変態に渡せって言ってました!」
あどけない顔して毒舌だな!
まあ手紙を持って来てくれたのか。
すると、後は馬だな。
「ああ、有難う、お嬢さん。えーと、馬は何処にいるか知らないかな」
「んー! アンヴァルは小さくないです! それに目の前にいます!」
目の前って……何処だ?
きょろきょろ視線を動かしていると、だんだんポニーテールの女の子がむくれてきた。
そして、やにわにぼくの脛を蹴り飛ばす。
あ、いま訓練で身体強化を掛け続けているんだけれど……。
踞って涙目で睨んできたんだけれど、これってぼくのせい?
「ごめんね。訓練で魔法を継続して掛けているんで……」
「ううー、やっぱりあの変態の弟子になろうなんていう物好きなだけはありやがるですよ! 女の子の前でも修行修行とか言ってやがりますか!」
何か流れ弾を食らった気がする。
変態ってクリングヴァル先生のことか?
ジリオーラ先輩もひどいことを言っていたが、そんなに問題のある人なんだろうか。
「まあ、いいです。所詮男なんてみんな莫迦なんです。その鼻の上についている飾りを、よっく見開いて見やがれなんです!」
女の子の体が眩しい光に包まれた。
思わず目を瞑り、腕で眩しさを抑える。
やがて、眩しさが収まってから目を開いたぼくは、そこにいきなり現れた白い生物を見て度肝を抜かれた。
「白馬?」
思わずエアル語で呟いてしまったが、それは確かに艶やかな純白の毛並みを持った馬であった。
そいつは莫迦にしたように鼻を鳴らすと、ぼくの目の前に顔を近付けて言った。
「わかったですか! アンヴァルが爺いに言われてあんたを待っていたですよ。わかったなら、とっとと乗るです。アンヴァルは愚図が嫌いです」
「うわっ、馬が喋った?」
驚きの余り飛び退くと、白馬は更に鼻を膨らませた。
「喋るくらい、ファリニシュの婆あでもやりやがりますよ。可愛いアンヴァルを、あんな年増と一緒にしないで欲しいのです!」
ファリニシュを知っているってことは、この馬も神の眷属なんだな。
ああ、びっくりしたよ。
アンヴァルって名前か。
しかし、人間の姿になるのに何でわざわざあんな女の子の姿になるんだろ。
ファリニシュは大人の女性の姿なのにな。
「いいから、さっさと乗りやがるです。今日中にベールまで着けないじゃないですか」
急かされたので、思わず左手で手綱を持ち、左足を鐙に掛けて馬の背に飛び上がる。
そこで、はっと気付いた。
「え、今日中って、ベールまでって六十マイル(約百キロメートル)はある……」
最後まで言い終わることはできなかった。
いきなり、白馬が駆け始めたのだ。
それも、常歩とか速歩じゃない。|
駈歩じゃないか。
くそっ、街中で出す速度じゃないぞ!
「速い。速いよ! 危ないし、そんなんじゃベールまで持たないだろ」
「速いって……アンヴァルはゆっくり進んでいるんですけれど!」
それでも、アンヴァルは速歩に速度を緩めた。
ふう、これくらいが普通の移動速度だよね。
さっきは誰かを道で蹄に掛けちゃうかと思ったよ。
しかし、驚くのはまだ早かった。
フラテルニアから外に出ると、白馬は再び速度を上げて南下を始めたのである。
また駈歩だよ。
疾いけれど、これで何処まで走れるのかな。
「ア、アンヴァル! この速度でベールまで駆け続けられるの!」
「こんなの歩いているようなものです! 仮にもアンヴァルは神馬ですよ! 侮辱するのもいい加減にしやがれです!」
そ、そうか。
ファリニシュの基準で考えればよかったのか。
しかし、こいつは大変なペースだぞ。
駈歩の速度は全力疾走である襲歩よりは遅いが、それでも四、五時間でベールまで到着するくらいの速さはある。
確かに伝令とかはそれくらいで駆けるけれど、それは途中で馬を換えての話だ。
アンヴァルは継続して駆け続けるつもりらしい。
絶え間なく鞍の上で上下に揺られながら、瞬く間にルツェーアンまで辿り着く。
身体強化を掛けているので疲労はないが、ちょっと休憩してもいい頃合いかな。
もう二時間以上駆け続けているし。
「甘えたこと言いっこなしです! このまま一気にベールに行くですよ!」
うお、何でこんなに元気なのこの方。
肉体的な疲労はなくとも、精神的には疲れるんだよ!
ぼくの心の叫びも届かず、アンヴァルはルツェーアンを尻目に今度は西へと駆け始める。
こ、これは本当に今日中にベールに着くよ!
ルツェーアンとベールの間は山岳地帯だから、勾配を避けやや北側を回り込むように街道が走っている。
山に入れば魔物もいるが、街道沿いは概ね安全だ。
こうして、アンヴァルの速度に早馬かと驚く隊商たちを追い抜きながら、一路ベールへと向かったのである。




