第五章 ケーファーベルクの初級迷宮 -9-
イグナーツが去ったことは、特に話題に出す者もいなかった。
むしろ、去ってくれてほっとしている者が多かっただろう。
襲撃犯のイグナーツが、のうのうと学院に顔を出すことに怒りと戸惑いを感じる生徒は多かったのだ。
ぼくもあれこれ言いたいことはあったが、彼との試合はいい経験になったことは確かだ。
新しい技も増えたし、確実に強くなれたと思う。
長年の相棒を失ったのが寂しいけれどね。
そろそろあれは卒業しろと言うことなんだろうな。
鉄製の剣を一振り持っているから、普段使う武器はある。
当面はこれで我慢するかな。
フラガラッハは抜けないしね。
地下四階は火山地帯で、熱気が充満している階層だった。
気温を下げるのに魔力を使い、意外と消耗を強いられた。
蜥蜴人の変異体である黒蜥蜴人がボスだったが、此処最近の死闘でぼくの実力が一段上がったらしく、さほど苦戦しなかった。
黒き鱗甲という防御術を使い、本来なら強敵だったのだろう。
だが、新しい魔法である衝撃刃は、斬る瞬間に魔力を爆発させ、斬擊と同時に対象に衝撃波をぶつけるものだ。
その破壊力はかなりのもので、容易く黒き鱗甲ごとボスを斬り裂いたのである。
ボスを倒して得たのは、黒鱗の胸甲だった。
竜鱗には及ばないけれど、かなりの防御力はあると思うよ。
次に地下五階に進むと、景色はまた通常の迷宮に戻った。
この階層の敵は、闇の蟷螂である。
四フィート《約百二十センチメートル》ほどはある大きな黒い蟷螂は、鋭い鎌のような前脚部が非常に危険だった。
魔力障壁を斬り裂く攻撃は、包囲されれば冷や汗ものだ。
だが、ぼくの見切りは明らかに向上していた。
今までより余裕を持って攻撃を避け、掠らせもせずに闇の蟷螂を狩り尽くす。
見えなかった攻撃が見えるようになった実感があるな。
ジリオーラ先輩の速度に追い付けるだろうか。
地下五階のボス翡翠の蟷螂は、闇の蟷螂よりふた回りほどでかく、六フィート《約百八十センチメートル》ほどはあった。
装甲もなかなか硬く、火焔刃でも致命傷は与えられなかった。
必殺の翡翠の断頭を六度までかわし、空いた隙に衝撃刃を叩き込む。
装甲を破壊したお陰で胴体を両断し、動けなくなったところに止めを刺したのである。
小箱から出たのは、翡翠珠刀だった。
やや湾曲した片刃の武器で、柄頭に翡翠の珠が嵌め込まれている。
刃の材質は鉄とは違うようだったが、わからなかった。
切れ味はよさそうなので、武器も交換することにする。
地下五階を踏破した日に、初等科でぼくの次に試験を突破した班が出た。
ビアンカとセヴェリナがいる班だ。
ジリオーラ先輩が試験官ではなかったとはいえ、中等科の実力者を負かしてきたのだ。
大したものである。
マリーは大いに悔しがっていたが、ハンスの班は実力者揃いだ。
焦らなくても、じきに突破できるさ。
地下六階で、翡翠珠刀の試し斬りをする。
相手は、動く人形か。
動きは鈍重なので、先制で斬りつける。
すると、柄頭の翡翠珠が輝き、刃を魔力が覆った。
これは魔剣の類か。
動く人形の腕を斬り飛ばし、返す刀で首を刎ねた。
斬れ味は恐ろしくいい。
ぼくの魔力も消費しないし、お得な武器だ。
試しに鉄製の剣でそのまま斬りつけたら、刃が欠けた。
動く人形の硬さは侮れないな。
地下六階のボスは、動く彫像だった。
動く人形の倍の身長を持った巨大な彫像が、大質量の乗った拳を振り回してくる。
鈍重ではないが、速くもないのが欠点だな。
翡翠珠刀の一撃でも断ち切れないほどの硬さだったが、刀の全魔力を放出して放つ翡翠の断頭で両断した。
新たに入手したのは、硬質化の指環だった。
これは、念じれば一瞬自分の肌を鎧と化すことができる指環のようだ。
魔力障壁が破られた後にはいいのかな。
そして、ハーフェズがついにジリオーラ先輩を破った。
ハーフェズの呼び出した黄金に輝く獣が、静水の鏡と衝突して相殺された。
そこに追撃の魔法の矢を大量に食らい、流水でも捌き切れなかったという。
ファリニシュの説明では、ハーフェズの独自呪文は魔法の矢の進化形らしい。
防御呪文を破壊する特性を付与し、独自呪文に昇華させたようだ。
この短期間で何してるんだ、あの天才は。
あいつの魔力は底無しだから、すぐ追い付かれそうなんですけれど!
続けて、ハンスの班もジリオーラ先輩を突破した。
マリーが元々持っていた偽装の独自呪文を磨き、自分を背景に溶け込ませるように昇華させたのだ。
ハンスとアルフレートの猛攻に気を取られていたジリオーラ先輩は、マリーの見えない攻撃を受け流せなかった。
意識外の攻撃は対処できない流水の弱点だな。
マリーと三人組は歓喜して派手な打ち上げをやったそうだ。
カレルが羽目を外しすぎてマリーにぶん殴られたらしい。
最近、ビアンカに感化されてきてないかな、マリーさん。
結構仲いいんだよね、あの二人。
ぼくも参加したかったが、これはあの班の打ち上げだしな。
実際、よくあの先輩に勝てたもんだよ。
中等科でも負けなしなのに。
「アラナンさまは、初級迷宮の裏を進まれているようですな」
久しぶりにハーフェズの邸に招かれたぼくに、ダンバーさんが紅茶を淹れてくれる。
「わかりますか」
「はい。気配の変化が感じ取れます。思い起こせば、アセナ・イリグもそうやってみるみる強くなっていきました。初級迷宮の単独挑戦を許されたのは、彼以来二人目でございます」
アセナ・イリグって、飛竜の異名を持つ黄金級冒険者だよね。
へえ、彼も単独踏破をしたんだ。
あれ、ダンバーさんやシピは?
「わたくしは単独挑戦は許可されませんでした。同じ黄金級でも、彼は別格でございます」
相変わらず、ダンバーさんのアルビオン式紅茶は絶品だ。
アルビオン王国は嫌いだが、これくらいは好きになってもいい。
「でも、ハーフェズも単独挑戦を認められたよね」
ダンバーさんやシピもそうだが、ジリオーラ先輩だって認められていないのだ。
大魔導師との関係を考えれば、ぼくはまだわかるけれど、ハーフェズまでとなると如何に彼が規格外かわかる。
「当然だ。わたしは、魔族の王となるべき男だからな」
面白そうな表情でハーフェズがぼくを見ている。
こういうときのハーフェズは、冗談を言っていることが多い。
だが、ハーフェズの魔力を知ると、あながち冗談とも笑い飛ばせない。
魔族の王。
セイレイス帝国の言葉だな。
ハーフェズの深い湖水のような瞳が、ぼくを底まで引き込むように瞬いた。




