第一章 黒猫を連れた少女 -6-
マリーと相客なのは、気疲れがするなんて思っていた自分をぶん殴りたい。
そんなアラナン・ドゥリスコルです、こんにちは。
正直、四六時中怨嗟の視線を向けられることに比べたら、マリーと一緒にいた時間は天国そのものでした。
ぼくの過ちを認めるから、この道連れに一刻も早く目の前からいなくなって欲しい。
猿轡を噛ませているから、罵声を聞かずに済むことだけは幸いだ。
しかし、こうして見ると、ユルゲン・コンラートはぼくやマリーより面立ちは大人びている。
栗色の巻毛で額が広く、鼻は大きめで眉と目の間は狭い。
レナス川上流域に住むアレマン人らしい容貌である。
癇が強そうな口許をしているな。
ま、帝国貴族なんてそんなもんだろう。
「なんで帝国がマリーを付け狙うんだ」
じっとユルゲンの目を見据えながら、疑問に思っていたことを問い掛ける。
「ロタール公がマリーを嫁に欲しがった。そこまではいいさ。だが、こんな危険な橋を渡ってまでロタール公が執着する理由も、帝国がロタール公に協力する理由もわからない。隠された別な理由があるならまだわかる」
ぷいとユルゲンは横を向いた。
その反応で、何となくぼくは自分の推測が正しかったと思った。
マリーには、恐らくまだ秘密がある。
ロタール公も、帝国も、その秘密を手に入れようと躍起になっているのだ。
アルトワ伯が娘をフラテルニアに派遣したのは、娘を守れるのがそこだけだと思ったのかもしれない。
いつの間にかマリーの黒猫が馬車の座席に蹲ってぼくを見ていた。
いつもマリーと一緒にいるくせに、珍しいこともあるものだ。
わがままで飽きっぽいのが猫という生き物。
小悪魔とは言い得て妙だね。
よく考えてみれば、マリーについてもジャンについても話してくれたのはこの黒猫だった気がする。
ぼくの疑問もわかっていてそこにいるのか。
そこまで話してくれないということは、ぼくが知るのはまずい話だと言うことなのか。
てし、と前足でぼくの膝を叩いてシピは戻っていった。
心の中を読まれているのか、いつも絶妙なタイミングであの黒猫は現れる。
猫にしとくのが惜しいくらい侮れないやつだ。
バーデには寄らず、通り過ぎる。
バーデは硫黄泉で有名な観光地だ。
郊外にルウム人が築いた千年以上前の城跡があり、時間があれば見ていきたい気はする。
だが、いまの状況では寄っている暇はなく、フラテルニアに直行することにする。
フラテルニアまでは三時間もあれば着く。温泉にはまた来ればいいだろう。
学院にいれば機会はあるはずだ。
マリーとジャンは余り会話をしていなかった。
このところの会話で、二人の性格や関係は何となく掴めてきた。
マリーは所作は優雅で上品だが、性格はそこまで貴族らしくない。
口調もまるで平民のようだ。
きついところは余りないが、心根はかなり強いだろう。このタイプは決して心が折れず、退くことがない。
ジャンは平民出身だけあって色々揉まれてきている感じだ。
騎士には似つかわしくないほどの経験深さがあり、物事をよく見ている気がする。
マリーに対しては丁寧で気を使っているが、ぼくには普通だ。
お嬢様のマリーはある程度ぼくに気を許しつつある気はするが、ジャンはまだぼくを観察しているぞと言う雰囲気を感じる。
ジャンは当然マリーの護衛の騎士なのだが、それほど親しくはないようだ。
幼い頃からの付き合いとかではなく、今回初めて付けられたと言った感じだろうか。
会話が続かず、黙ったままの時間が多い。
そういや、マリーは初めぼくともそれほど喋らなかった。
それほど大人しい性格ではないから、人見知りなのか、会話の訓練ができてないのか。
「フラテルニアが見えてきたぞ」
御者台からジャンの声が飛んでくる。
ようやく到着したか。
ヘルヴェティア自由都市連合の中核を占める湖畔の街フラテルニア。
あの街には、大魔導師ティアナン・オニールがいるはずだ。
エアルの祭司たちが、こぞって師事したという伝説的な英雄である。
聖修道会を組織し、ルウム教会に抵抗する宗教界の巨星ウルリッヒ・ベルンシュタインと並ぶフラテルニアの二大巨頭だ。
まあ、ぼくのような若造がそう簡単には会えないだろうが、この件についてはエアルの祭司たちが何かしでかしてそうな気はする。
街に入る前に、ユルゲン・コンラートを解放する。
戒めを解かれたユルゲンは、ぼくを憎悪の篭った視線で睨み付けてきたが、武器も鎧もない状態で突っかかってきたりはしなかった。
ブライスガウ伯爵たるツェーリンゲン家を敵に回した気はするが、フラテルニアにいる限りは心配することもない。
「約束通り解放致します。まあ、馬も金も食料もないかもしれませんが、バードゼックまで辿り着けば大丈夫ですよ。なに、精々約十二リュー(約五十キロメートル)といったところです。頑張れば一日で着けますよ」
ジャンが莫迦丁寧にユルゲンに一礼する。
これは皮肉を込めてわざとやっているのだろう。
思っていたが、ジャンはなかなか性格が悪い。
当然捕まえてから食事も水も与えていないから、下手をしたら二日くらい飯抜きになるかもしれないが、人間それくらいで死にはしないさ。
ぼくだって祭司の糞爺たちに森の中に置き去りにされて三昼夜彷徨ったことがある。
その経験から言って、人間その気になれば意外としぶといものだ。
ユルゲンには言いたいこともあるだろうが、こっちも下手をすれば殺されていたんだ。
聖爆炎を使った後悔はない。
祭司には滅多に使うなと言われていた呪文だが、あの人数は正直手に余った。
使わなければ、こうして無事にいられたかはわからない。
ま、過ぎたことは気にしないようにしよう。
城門に臨んで右手には、ユトリベルク山のなだらかな山並みが見えている。
左手にはケーファーベルクの丘が緩やかな盛り上がりを見せ、その間にはさほど深くはないが森が広がっている。
フラテルニアはその谷間に森を切り開いた形で存在していた。
城門の列に並ぶと、それほど待たずにぼくたちの番になる。
旅券をチェックした衛兵は、ぼくたちが魔法学院の入学者だと知ると敬意を込めて一礼し、旅券を返してくれた。
学院は例外を除き各国の国主の推薦がなければ入学できない。
そして、魔力を持つ者だけが推薦を受けることができる。
学院の卒業生は国に帰還して栄達の道を歩む者もいるが、ヘルヴェティアに残って自由都市連合にその身を捧げる者もいる。
高度な魔法知識で自由都市を守護する魔法師は、フラテルニアでは大いなる尊敬を集めているのだ。
「わたしは市長のベルナルド・シュピリを訪ねるけれど、アラナンはどうするの?」
流石にアルトワ伯のご令嬢だけあって、マリーは市長と会うようだ。
無論、ぼくはベルナルド・シュピリに伝手も約束もないので、会うことは無理だろう。
一応祭司からは訪ねるように言われている人物もいるが、急ぐことはあるまい。
まずは宿を取って、ゆっくり街を見回ってからだ。
「ぼくは宿を取って二、三日のんびりするよ。流石にエアル島から長旅だったんでね。暫く骨身を休めて、それから学院に行くさ」
「そう。じゃ、ここでお別れね。正直、貴方がいてくれて助かったわ。わたしたちだけじゃ、危なかったかも。また、学院で会いましょう。同じ級だといいわね」
「ああ。これから何年か学院にいることになるだろうし、こちらこそよろしくな。今度はマリーの魔法も見せてもらうよ」
「わたしのは戦闘向きじゃないのよ、アラナン」
マリーが微笑むと、その髪の色が栗色から見る間に豪奢な黄金の髪に変わっていく。
同時に、深い青だった双眸も、吸い込まれるような金色へと変化した。
「旅券を偽装したのも……同じ力か」
驚愕に大きく目を見開いたぼくを見て、マリーはちょっと得意そうに頷いた。