第四章 ルンデンヴィックの黒犬 -10-
ハーフェズが唐突に駆け始めた。
慌てて、ぼくもその後を追う。
ハーフェズも、ぼくと同じ焦燥感を覚えたのだ。
やつらが向かっているのは、北斗七星亭のある方向だ。
そこに、漠とした不安を感じる。
駆け付けた北斗七星亭で、ぼくたちはその嫌な予感が正しかったことを確認した。
店の外の路地で、サーイェが群衆に囲まれていた。
彼らはどう見ても堅気とは思えない連中で、手にナイフなどの武器を持っている。
十数人はいるだろうか。
だが、囲まれたサーイェの方は、何も持たず不自然なほど自然に佇んでいた。
よく見ると、すでにサーイェの周囲には五人ほど男が失神して転がっていた。
状況から察するに、サーイェに倒されたのだろう。
囲む男たちが殺気立つはずである。
「お前ら、うちの使用人に何の用だ」
地獄のように低い声が聞こえてきた。
え、いまのはハーフェズか。
いつもの余裕のある口調ではない。
本気で怒っている迫力が感じられる。
「てめえが親玉かあ。ギルドに断りなく、この辺りで商売できると思うなよ!」
「女やガキだからって、舐めた真似しくさりやがったら、落とし前着けてもらわないとなあ!」
ドスの効いた声で男たちが叫ぶ。
なんだろう、こいつらは。
サーイェが何でこいつらに絡まれているかわからないので、何とも言いようがない。
「使用人に文句があるなら、わたしが聞こう。このイスタフルのハーフェズ・テペ・ヒッサールがな」
ハーフェズの怒りは沸騰しているようだが、まだ爆発はしていなかった。
ぎりぎりで暴発を抑えたらしい。
とりあえず、話し合いの提案をするくらいの冷静さは残っていた。
「へっ、じゃあ金を払ってもらおうか。本当なら、てめえらを叩き売りたいところだが、フラテルニアでは人身売買はご法度だ。慰謝料金貨百枚で手を打ってやらあ!」
意外と真面目な裏稼業の連中だ。
奴隷商売がフラテルニアでは禁止されているのは確かだが、こういう連中がそれを守っているとはね。
「わかった。払おう」
あっさりとハーフェズは連中の要求を受け入れた。
魔法の袋から金貨の詰まった袋をふたつ取り出すと、無造作に放り投げる。
「貴様らの面子は立ててやる。その金を受け取ってとっとと失せろ。それでも文句を言うようなら、イスタフル帝国と魔法学院が相手になるぞ」
学院の関係者だと知ると、連中に動揺が走った。
フラテルニアでは、聖修道会と魔法学院に逆らう者はいない。
ヴァイスブルク家を筆頭とするアレマン貴族を、ヘルヴェティアから追い出したティアナン・オニールだ。
彼の怒りほど恐ろしいものはない。
「ちっ」
虚勢を張りながら金貨の入った袋を拾い上げると、男たちは引き揚げ始めた。
ぞろぞろと連れ立ちながら、ハーフェズの隣を過ぎ、ぼくの横を歩いていく。
(アラナン・ドゥリスコル。覚えたぞ、その顔)
囁くような声が、ぼくの耳を打った。
思わず横を歩く男を睨むが、不思議そうな顔をするだけで立ち去っていく。
(次は本気で掛かる。そのときまで、その首は預けておくぞ)
きょろきょろと周囲を見回すぼくに、ハーフェズも首を傾げる。
これは、ぼくの耳にしか届いていないのか。
「アンサー・ブランか!」
(ふふふ、それも仮の名。貴様如きにはおれの影も掴めまい。おれの従魔を屠った礼は、この次に必ず果たす。それまで、眠れぬ夜でも過ごすんだな)
男たちが通り過ぎていく。
慌てて顔を確かめるが、訝しげな表情が返ってくるだけだ。
あの女受けしそうな甘い顔立ちのサビル人はいなかった。
「どうしたんだ、アラナン」
ハーフェズですら、気付いていなかった。
ぼくは肩をすくめて、大きく息を吐いた。
「いまの男たちの中に、アンサー・ブランがいたんだ。いや、名前も顔も変わっていたかもしれない。そもそも、サビル人ですらないかもしれない。やつめ、思ったよりずっと危険な男だぞ。いまの騒動も、やつが企てたものに違いない」
ハーフェズとサーイェは、ぼくが何を言っているんだという顔をしていた。
だから、ぼくは北斗七星亭に踏み込むと、渋る亭主に金を掴ませ、アンサー・ブランの部屋の鍵を開けさせる。
だが、鍵を開ける必要はなかった。
掛かっていなかったのだ。
部屋の中は空っぽだった。
アンサー・ブランの気配もなかった。
「まんまと逃げられた。やはり、あの中の誰かがアンサー・ブランだったんだ」
ぼくの呟きを聞いたサーイェは、肩を落として落ち込んでいた。
言葉に出さなくても、サーイェがハーフェズとダンバーさんのために張り切っていたのはわかっていた。
だから、危険な囮役も進んで買って出たのだ。
それなのに、自分が絡まれていたために犯人に逃げられたとあっては、責任を感じてしまうのだろう。
「なに、そんなに気にするでない。おぬしたちはよくやった。むしろ、深入りせんでよかったの」
いつの間にか、部屋の中に大魔導師と黒猫が入ってきていた。
シピが神出鬼没なのはいつものことだが、今日はオニール学長まで一緒である。
「容易ならぬ気配を感じ取ったのでな。まさか、聖典教団の運命を開く者が来ておったとはの」
イフターハ・アティード?
聞いたことのない名前だけれど、何者なんですかね。
「聖典教団には未だ幾人か退魔師が残っておるが、その中でも最強の術者じゃよ。別名は無色の貌。いまのおぬしらが戦っていたら、間違いなく二人とも殺されていたじゃろう。本気じゃなかったようで助かったの」
ちょっと!
そんなにやばい相手とか聞いてないですよ!
ぼくはやつにしっかり目を付けられたみたいなんですが、どうしたらいいですかね。
「なに、彼奴より強くなればいいだけじゃ。最低でもフラガラッハを使いこなし、更には残りの四つの神器を手に入れることじゃの。わしらに関わってこなかった聖典教団が出張ってくるとなると大事だからの。しっかり成長しておくのじゃな」
「初等科の講義しか受けてないですけれど、それでそのイフターハ・アティードってやつに対抗できるんですかね!」
「なに、フラテルニアにはわしもおれば、シピやキアランもおる。イリヤもおるじゃろ。警戒はしておくから、心配はせんでいい」
そこの黒猫がその無色の貌にたぶらかされた筆頭じゃないですかねって、痛い、痛いよ、シピ。
爪立てて手を引っ掻くのは禁止だよ!
シピが読心の使い手だって忘れていたよ。
しかし、そういやイフターハは、シピの読心を防護してみせたんだっけ。
黄金級冒険者に匹敵する敵だと想定すると、背筋に寒気が走るよホント。
ま、エアル島のセルト人は常に戦いに身を置いて生きてきたんだ。
今更敵の一人や二人増えたからって大したことじゃない。
ことじゃないよね、シピ・シャノワール。
目を逸らさないで!




