第四章 ルンデンヴィックの黒犬 -8-
黒くはないんだな。
死体を見たぼくの第一印象はそれだった。
ぼくの螺旋牙は見事に口の中から後頭部まで貫いており、一撃で魔獣を絶命させていた。
姿を現した魔獣は巨大な犬の姿はしていたが、黒毛ではなく茶色かった。
あれだ、夜しか現れなかったせいで黒い印象がついたんだろうな。
黒なら闇に溶け込むし。
「原種はモロシア犬かな。恐ろしい犬だぞ。軍にも使用される。生身の人間なら、まず勝ち目はない。ましてや魔獣化した個体に勝つとは、流石はアラナンだな」
ハーフェズが近付いてきた。
丁寧に布で刃の血を拭っている。
ぼくも大量の返り血を浴びていたが、魔法障壁で弾いて体に食らうのは避けていた。
右手を口の中に突っ込む寸前まで、棒を突き込んでいたからな。
本来なら、帰り道で不審者扱いされて逮捕されかねない量の血を浴びていた。
「後の処理は頼めるか、シピ・シャノワール」
「あら、気が付いていたのね」
死体を改めていたハーフェズが、振り向きもせずに言った。
その言葉に反応するように、ぼくの影から沸き出るように黒猫が現れる。
もう、ぼくの影から現れるのは様式美なのか?
「これがルンデンヴィックの黒犬なのね。思ったより可愛いのね」
「戦闘は凶悪だったけれどね。ハーフェズの魔法の矢を防ぐ障壁を張る魔獣なんて、そうはいないでしょ」
「そうね、少なくとも黄級の危険度はありそうね。でも、問題はこいつより操っている人間の思惑よね。こっちの処理はしておくから、キアランの方に向かってちょうだい」
後始末をしてくれるのは有難い。
何せ、夜とはいえ野次馬が出始めて来ている。
説明も面倒だし、後はギルドに丸投げしたいところだ。
「サーイェ、行くぞ」
ハーフェズは犬の死体を見終わったか立ち上がり、メイドのサーイェさんを呼び寄せた。
屋根の上に避難していたサーイェさんは、まるで重力がないかのようにふわりと飛び降りる。
恐るべき跳躍力だな。
このメイドさんも謎が多い。
シピに後を任せ、ぼくらはアルトシュテッテンの安宿に向かった。
ダンバーさんが待機をしているはずである。
さて、アンサー・ブランは動いたのであろうか。
「ハーフェズ、アンサー・ブランの正体にひとつだけ心当たりがあるんだが」
「何だ?」
「昔、ルウム教会には異教狩りの退魔師がいたんだ。アンサー・ブランは、それの聖典教団版ではないかと思ってね」
「ふむ、聖典教団の退魔師か」
時代が下り、すでにルウム教会には退魔師はいないと言う。
ならば、その穴埋めを別なところから持ってきても不思議はない。
セルトの祭司長がやっている学院にすら人を送り込んでくるのだ。
聖典教団を利用するくらいは簡単にするのではないだろうか。
え、誰がやるかって?
ヴァイスブルク家に決まっているでしょ。
フラテルニアの西の外れ、アルトシュテッテンの北斗七星亭に辿り着く。
ぼくたちが近付くと、いつの間にかハーフェズの傍らにダンバーさんが控えていた。
くっ、シピといい、ダンバーさんといい、全然気配が感じ取れないな。
ハーフェズはシピの気配を感じていたと言うのに、こっちはさっぱりだ。
「魔獣は片付いたぞ」
ハーフェズの報告にダンバーさんは丁寧に一礼したが、その表情は芳しくなかった。
「こちらの動きはございません。定期的に部屋も見張っているのですが……」
動きがない。
アンサー・ブランが犯人だとしたら、こうまで動きがないなどと言うことがありえるだろうか。
通常なら、あの魔獣を放つときに動きはありそうだけれど。
ああ、あの魔獣!
透明で姿が見えなかったじゃないか。
「倒した魔獣だけれど、透明化することができたんだよね。気配を殺して出入りされたら、気付けないかも」
「いや、アラナンとダンバーの気配探知能力を一緒にするなよ?」
何気にハーフェズが失礼なことを言う。
「幾ら姿を消せるとは言え、ダンバーが魔獣の気配を見逃すはずがなかろう。シピ・シャノワールのような空間移動の能力でも持っていれば別だが……」
「うーん、戦闘中に移動系の力は見せなかったね。魔力障壁と魔力を断つ爪は持っていたけれど」
それで透明化できるんだからな。
普通に考えれば相当危険な魔物だ。
白銀級の冒険者でも、下手をすればやられかねない。
ぼくも学院に入る前なら結構まずかったかも。
「何れにしろ、動きを見せないなら手出しはできない。やつが犯人だとしたら、恐ろしい相手だな。あの無害そうな外見も見せかけかもしれないぞ」
アンサー・ブランが動かない以上、此処に何人もいても仕方がない。
ダンバーさんを残して、ぼくらは帰ることにする。
サーイェさんと交代しながら、交互に見張るそうだ。
先程のあの跳躍力を見たら、サーイェさんも大丈夫そうだな。
ハーフェズの屋敷に帰還し、その日は就寝する。
翌朝、ハーフェズとぼくは学院に登校した。
教室に入ると、いつものようにファリニシュが近付いてくる。
そこでぼくは、彼女からマリーを狙った襲撃があったことを聞いた。
「全員凍らしなんした。主様のお気を煩わせるほどではござんせん」
十人ほどの小集団は、フラテルニアに入場した記録がなかったらしい。
不法入国者であるが、それを易々と許したことは失態である。
ファリニシュから大魔導師に連絡は行っているそうなので、何処から侵入されたかの調査も行われるだろう。
しかし、それを聞くとアンサー・ブランの役割が見えてくるような気がする。
これ見よがしな滞在は、フラテルニアの目を自分に惹きつける陽動の役割だ。
その間に実行部隊がマリーを誘拐する。
こっちが本命だったのであろう。
「でも、ヴァイスブルク公には前回の襲撃の落とし前は着けさせたんだよね?」
「今回はアルスの男衆が出張りなんしたなあ」
アルス人ってことは、ロタール公の手の者ってことか。
次から次へとよくやるよ。
しかし、ファリニシュがいてよかった。
十人もいたら、マリーとジャンだけでは手に余っただろう。
「ぼくを呼んでくれてもよかったのに」
ファリニシュは太陽神の眷属だ。
そして、ぼくは一応太陽神の祭司長の資格を持っている。
ファリニシュとの契約で、いざというときにはお互いに呼び出し合うことができるのだ。
無論、マリーの危機に駆け付けるために講じた一手である。
「主様も取り込み中でござんしたからなあ。あれくらい、わっちだけで片付きなんす」
はい。
まあ、優秀な狼さんがいてくれて助かったよ。
寒い思いをした甲斐はあったよね。
え、そんなに寒くはなかったはずだ?
そうだけれどさ。
吹雪の中にいてごらんよ。
幾ら温度調節していても、寒いって気になってくるもんだよ!
しかし、これでアンサー・ブランの目的はなくなったはずだ。
陽動が主目的なら、魔獣も本命の実行部隊も消えたいま、もう彼が動くことはないはずだ。
学院の講義が終わったら、確認しにアルトシュテッテン地区に行ってみるかな。
おっと、その前にギルドに寄るのもいいかもしれない。
魔獣退治の報奨金の確認もしておかないとね。
大鬼より安いってことはないだろう。




