第四章 ルンデンヴィックの黒犬 -5-
「左様でございますな。ルンデンヴィックで調査を担当した経験のあるわたくしから言わせて頂きますと」
ダンバーさんが、一枚の資料を拾い上げた。
「アンサー・ブラン。サビル人。三十二歳、男性。この方ですが、実は事件当時にルンデンヴィックに滞在されていた方でございます。幾ら調査しても証拠が出ず、結局犯人と断定できなかったのでございますが」
すると、サビル人の商人が一番怪しいってことじゃないですか。
ハーフェズを見ると、明らかに興味を惹かれた顔をしている。
「死因は獣の噛み傷だったか。アンサー・ブランは獣を連れていないのだな」
アンサー・ブランは敬虔な聖典教団の一員だった。
ルウム教会と同じ神を信奉しているが、教会以前から存在している規範の厳しい宗教だ。
元々はミズラヒ人の宗教だが、千年ほど前にはサビル人にも広まっていた。
どちらも今は国を失い、放浪していることまで同じである。
「連れてはいませんな。身一つで旅をしているようです」
「ルンデンヴィック滞在の前後の足取りは旅券に残っているのか?」
「今は残ってはいませんが、当時の記録ではハザール海の北からマジャガリー王国を抜け、ヴィッテンベルク帝国からアルビオンに入っていました。帝国では聖典教団は冷遇されているんで、わざわざ足を踏み入れる理由もわかりませんでしたが」
サビル人は、マジャガル人やバルガル人と同様に魔族の一翼を担ったと言われている民族だ。
異教徒であるはずの彼らが、ルウム教会と同じ神を信仰するに至った経緯はわからない。
しかも、ルウム教会の支配体制には入らず、敢えて聖典教団に加わった。
聖典の民の一員になることに何の意味があったのか。
「とりあえず、どこに泊まってるの、そいつ。アルトシュテッテンの北斗七星亭? ちょっと離れているね」
フラテルニアの西の外れの方に泊まっているようであった。
学院や聖女修道院のある中心地からは、少し距離がある。
菩提樹亭のような金持ちの泊まる高級宿ではなく、もっと安い宿がある地域だ。
「どうする、とりあえず明日顔の確認に行ってみるかい?」
ぼくの提案に反対する人はいなかった。
今日はもう遅いからね。
今から出掛けるのは難しい。
寝室には、無口なメイドさんが案内してくれた。
しかし、サーイェさんは驚くほど歩き方が静かで音がしない。
ハーフェズかダンバーさんが教えているのか?
いや、それにしては熟練している。
ぼくも森の狩人として移動に音はしない方だが、この子はぼくなど素人に見えるレベルで静かだ。
「静かに眠れ」
試しに棒の師匠の故郷の言葉で話し掛けてみる。
キャセイの言葉はほとんどわからないが、これは師匠の決め台詞だったから覚えていた。
だが、サーイェさんに反応はないな。
「君の名前は何て言うの?」
次に、師匠曰く東方での共通語だと言う言葉で聞いてみる。
これも片言程度しかわからないが、何か反応があるかもしれない。
ぴくりと彼女の眉が動いたところを見ると多少聞き覚えはあるようだな。
でも、意味がわかっているようには見えない。
参ったな。
ぼくの言葉の知識ではこれくらいが限界だ。
「どぅーじえあーら」
ぽつりとサーイェさんが喋った。
正直何て言ったかはわからないが、この共通語の言葉であることは間違いない。
それがぼくの問いに対する答えなのか、それともその言葉しか東方共通語がわからなかったのか、それもわからない。
だが、サーイェさんが喋れないわけではないことはわかった。
ぼくの寝室のドアを開けると、一礼してサーイェさんは戻っていった。
しかし、難しい問題だな。
彼女は別に喋りたくないわけではないはずだ。
言葉もわからない異国での警戒心の表れだったのかもしれない。
だが、一度喋らない女として認識されてしまったがために、喋る切っ掛けを失ってしまった。
ハーフェズはそういうところ大雑把だしな。
ダンバーさんなら気付いてそうだが、何か放置している理由があるのだろうか。
翌日、学院の帰りにハーフェズとアルトシュテッテン地区へ向かう。
フラテルニアでも西の外れで、余り金のない連中が暮らしている。
冒険者ギルドでも、青銅級に成り立ての新人なんかはここ暮らしだ。
何、本当に金がなくなれば、聖修道会の雑用をやれば食事くらいは出してくれる。
「全く気配を感じないけれど、これでダンバーさんとサーイェさんが付いてきているの?」
「そうだな。アラナンは初めて会ったとき、わたしの気配も感じ取れてなかっただろう、それではあの二人を捉えるのは無理な話だ」
ぐう。
何気に思わぬ方向から駄目出しを食らってへこまされる。
ぼくも常人よりかなり感覚は鋭敏な方なんだけれどな。
何というか、凄い人が多すぎて自分が修業が足りないと思わされ続ける毎日だよ。
北斗七星亭は、薄汚れた安宿だった。
かろうじて看板には星が七つ打ち付けられているが、一つ取れかかっている。
六星になったら昴亭にでもするのだろうか。
「どうするんだい」
ハーフェズに問うと、天才児はいい笑顔で答えた。
「当然、会ってみるさ」
まさかの正面突破!
流石にそれは無理じゃないですかね、ハーフェズさん!
そんなぼくの心の声には頓着せず、ハーフェズは無造作に宿の中に入る。
彼は異国風の白の長衣に長い黒の上着を羽織り、金髪に白の頭布を巻いている。
お前さんのその格好は目立つんだよ、ハーフェズ君。
案の定、一階の安酒場で飲んだくれていた男たちが一斉に振り返る。
冒険者風の四人、二人連れの商人、傭兵風が一人、裏稼業っぽいやつが一人、もう一人商人風の男がいるな。
「アンサー・ブランだな」
その視線を無視し、いきなり最後の商人風の男の前に座ったハーフェズは、葡萄酒を自分と男に持ってくるよう亭主に注文した。
ぼくの分はないのかよ。
まあ、いいや。
ぼくは座らずに横に立っていよう。
「誰だい、あんたは」
こうして見ると、アンサー・ブランは安宿にいる割には身綺麗にしているな。
長い金髪は後ろで束ねられているし、髭も剃られている。
三十二歳だっけか。
肌も白いし、女性受けしそうな顔立ちだ。
雑貨小物を扱っているんだったよな。
これで口が巧ければ儲かって仕方ないんじゃないか?
「わたしはイスタフルの商人でね。ハーフェズと言う。あんたに仕事を頼みたいんだ」
「若いな……その歳で商人? 山羊の乳でも飲んでた方が似合うんじゃないか?」
そう言いながら、アンサーは亭主が持ってきた葡萄酒を平気で呷った。
奢りは遠慮なく頂くようである。
そんなに注意深いようでもないし、手練れにも見えない。
こんなやつが大量殺人鬼なのかな?
何か当たりって感じがしない。
「商人に年齢は関係ない。必要なのは金と嗅覚だ。金儲けの匂いが嗅ぎ取れないとは、あんたの商人としての才覚を見込んだわたしの目が節穴だったと言うことかな」
ハーフェズが腰に提げていた袋を机の上に投げ出した。
紐を解くと、中にはマルク金貨がぎっしり詰まっている。
一袋で五十枚くらいはあるのだろうか。
「わかるか、現金での取引だ。足が付かない金が手に入る。これは手付けだが、巧くいけばこの十倍は払おう」




