第四章 ルンデンヴィックの黒犬 -3-
招待されていたハーフェズの屋敷にお邪魔することにした。
ハーフェズの屋敷は、学院のあるエーテンバッハ通りの一本隣、ウラニア大路に面している。
正直、学院からは滅茶苦茶近い一等地だ。
金持ちめ、しかも物凄い豪邸である。
そこにハーフェズは、黄金級冒険者のキアラン・ダンバーを執事に、謎の黒髪美少女サーイェをメイドに雇って暮らしている。
本当は何人もメイドを雇わないと家事が回らない屋敷の大きさなのだが、不思議とサーイェは一人でこなしてしまうらしい。
「行き倒れているところを拾ったのだがな。喋らないんで名前もわからん。だが、家事は一流だ」
うん、窓の桟を指でなぞってみたが、埃ひとつない。
彼女の掃除は完璧だ。
このレベルの掃除を屋敷の全ての箇所にやっているとなると、それだけで一日が潰れてしまうはずなんだがな。
彼女は炊事や洗濯もきちんとこなしている。
紅茶だけは、ダンバーさんが淹れているようだけれどね。
「アングリカン・ティーでございます。アラナン様はアルビオン王都で嗜まれたかもしれませんが」
紅茶にスコーンが添えられて出される。
正直、ぼくはルンデンヴィックにはそれほど長く滞在していない。
本場のアングル式紅茶ははじめてだ。
「わたしたちパールサ人も長年紅茶を飲んでいるがね。このアングル人の飲み方と言うのはなかなか斬新で気に入っているんだよ」
「お褒めに預かって恐縮でございます。アングリカンとは、アングル式のと言う意味もありますが、聖公会の意味もございます。ご存知のように、聖職者は飲酒を禁じられておりますからな。聖公会では喫茶の様式が発達しております」
ダンバーさんはひとつひとつの動作が洗練されており、少しの歪みも淀みもない。
まさに、決まっていると感じるのだ。
白髪をオールバックにし、口もとに綺麗に揃えられた髭を蓄え、黒い燕尾服を流麗に着こなしている。
その佇まいには一分の隙もない。
「ダンバーさんは聖公会のお仕事も?」
「左様でございますな。アルビオンにいた頃は、王族か聖職者の護衛が多うございましたから。ティアナンとウルリッヒの志に同意してからは、冒険者ギルドの仕事しかしておりませんがね」
フラテルニアの二大巨頭。
その二人の志が何かなんて、聞かなくても大体わかる。
フラテルニアの街の有り様がそうだ。
自由、平等、友愛の都市フラテルニア。
ウルリッヒ・ベルンシュタインはそのためにルウム教会と戦い、ヘルヴェティアから教会勢力を追い出した。
そして、ティアナン・オニールはアレマン貴族の連合軍を撃ち破り、ヘルヴェティアから貴族勢力を駆逐した。
ヘルヴェティア自由都市連合の評議会が置かれるベールに、冒険者ギルドの本部もある。
冒険者ギルドもまた、ヘルヴェティアの強力な手駒のひとつだ。
これにはルウム教会も出資しているから、ベルンシュタイン大主教に追い出された教会勢力も強硬手段は取ってこない。
そのヘルヴェティアの三枚の切り札の一人が、このキアラン・ダンバーさんだ。
執事の異名を持つ黄金級冒険者。
護衛専門の達人である。
「ダンバーは凄いぞ。わたしが雨のように魔法の矢を降らしても、全て避けられて一撃を食らう。わたしの攻撃などまるで当たる気がしない」
ハーフェズが愉快そうに笑う。
おっと、ハーフェズに負けているぼくじゃ、まるで相手にならないと言うことじゃないですか。
まあ、黄金級冒険者相手なら当然か。
「ハーフェズ様は身体強化の練度がまだまだでございます。素人相手なら通じても、手練れには通じませぬぞ」
基本は奥義に通じるのでございます、とダンバーさんは語る。
しかし、ハーフェズの身体強化でまだまだなのか。
あれ、初等科では並ぶ者がいない強度なんだけれど。
ぼくの身体強化でも敵わないんだよ?
「わたくしはほとんど全ての攻撃を見切る自信はございますが、過去に二回だけ攻撃が見切れなかったことがございます」
新しい紅茶を淹れながらダンバーさんが微笑んだ。
「一人は飛竜アセナ・イリグ様でございます。彼の拳打──ただの正拳が、わたくしの目を以てしても捉えきれませんでした。同じ黄金級でございますが、力は彼の方が上。武人として大陸の頂点に立つお方でございます」
アセナ……?
ぼくのエアル島での棒の師匠と同じ苗字だな。
確か、姓が前なんだ。
何か関係があるのかな。
と事実から目を逸らしつつ、ダンバーさんより強い人がいることに内心がっくりくる。
世の中どんだけ強い人がいるんだろう。
「もう一人はアラナン様、貴方です。飛竜を斬り裂いた光の一閃。あれはまさに抜く手も見せぬ一撃でございました」
ああ、あれか……。
そりゃ、あれは神聖術使っているしね。
あれを基準に考えられても困る。
「まあ、あの技はオニール学長に禁止されているんで。普段は使えないんですよ」
「大まかには、ティアナンから聞いておりますよ。マルグリット・クレール・ド・ダルブレ嬢についても、把握は致しております。なに、気にすることはございません。元々わたくしたちは、ずっとヴァイスブルク家と戦ってきたのです。今までも、これからも変わりはしませんとも」
ハーフェズに雇われていなかったら、ダンバーさんがマリーの護衛をしたのだろう。
オニール学長から、事情は聞いているようであった。
それはそれで心強い。
ファリニシュを信頼しているが、どんな事態に陥るかわからないしな。
「ところで、何でわざわざイグナーツを学院に戻したか聞いてますか?」
ついでに、疑問に思っていたことを聞いてみる。
アールバード・イグナーツは、マジャガル人の名家アールバード家の跡取りだ。
すでに密偵だと割れているところに派遣してくるには家柄がよすぎるし、受け入れる学院の神経もわからない。
「フラテルニアには、密偵の類は近付きにくいのでございます。かの黒猫が目を光らせておりますので。迂闊に入り込んだ密偵は、大抵彼女に処断されます。ですが、唯一密偵が安全に過ごせる場所がございます。それが……」
「学院の中、と言うことなんですか」
成る程、ヴァイスブルク家がベルンシュタイン大主教に譲歩してまでイグナーツを押し込みたかった理由はわかった。
だが、学院は何故受け入れたのか。
「そうか、泳がせているんですね。今回も、本当は知っていたんだ。イグナーツは冒険者ギルドでファドゥーツ伯の家臣と会っていた。シピが知らないはずがない」
「あら、流石はアラナンね。そこに気が付くなんて」
うわっと。
いつの間にかぼくの足の下で黒猫が前足を舐めていた。
シピ・シャノワール!
心臓に悪いからいきなり現れるのはやめてほしいんだけれど。
「相変わらず見事な影渡りでございます」
「貴方はいつも驚かないわね、キアラン」
執事と黒猫は、落ち着いて挨拶を交わす。
ハーフェズもまるで動じずにゆったりと紅茶の香りを楽しんでおり、ぼくだけが焦っていた。
この人たち、何でこんなに冷静なんだよ!




