第三十六章 タル・イ・マルヤーンの迷宮 -1-
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ツァグロシュ山脈。
イスタフルの西部を縦断する大山脈。
帝都ヤフーディーヤも、山脈の北部の東に位置している。
ぼくらは帝都には寄らずに南下し、その南部の山中の盆地にある古都アンシャンに来ていた。
このあたりは乾燥したイスタフルには珍しく、水が豊富な地域である。
それだけに、木々や農地も散在しているようだ。
アンシャン自体は大きな都市ではない。
近隣の大都市は、もう少し南東にあるティラジスである。
朽ちた乾煉瓦の住居が散在する田舎の小さな村。
いまのアンシャンの印象は、そんなところだ。
「宿どころか店もないわね」
見知らぬ軍装をまとった我々の姿に住民は警戒していたが、火の精髄を見せると愛想よくなった。
「自給自足みたいやね。商人はティラジスにしかおらへんようやで」
かつてのアルタム王国の都も、いまは昔。
その面影は全くない。
村人は農耕と牧畜に従事し、素朴な生活を送っている。
見るべきものもないかと思ったが、意外なものにマリーとジリオーラ先輩が注目していた。
絨毯だ。
「いい織りやね、この絨毯」
「色遣いが素敵ねえ」
壁に掛けられた色彩鮮やかな絨毯に、二人が足を止める。
「イスタフルの織物は有名やけど、この村の絨毯は極上物やんか」
「うちにもひとつ欲しいくらいだわ」
女性陣が動こうとしない。
参ったな、絨毯の良し悪しはぼくにはわからないよ。
とは言え、絨毯くらい買う程度の蓄えはある。
話してみると、アンシャンでも貨幣は通用するようだ。
村人は絨毯や作物を売りにティラジスに行き、売った代金で生活に必要な雑貨を買ってくるらしい。
絨毯の価格はびっくりするくらい高かったが、それでも三枚くらい買っても問題ない。
色々な褒賞金で、ぼくの財布は大分重くなっている。
「わあ、ありがとう、アラナン!」
「太っ腹やね、アラナン!」
マリーが選んだ絨毯は、華やかではあるが上品でくどくない一品である。
マリーの部屋は洗練されており、そこに飾っても調和するものを選んだのだろう。
ジリオーラ先輩は、逆にかなり派手な色彩の絨毯を選んでいた。
彼女の部屋は癖のある調度が多く、それぞれ個性を主張するが、何故かうるさく感じない。
これだけ目立つ絨毯は普通だと浮いてしまうが、ジリオーラ先輩の部屋だとちょうどいいのかもしれない。
ファリニシュが選んだのは、落ち着いた色合いの地味な絨毯だ。
イスタフルの絨毯はカラフルなものが多いので、こういう色柄は珍しい。
ぼくは派手なのはあまり好きではないので、こっちの方が好きだけれど。
絨毯をファリニシュの魔法の袋に入れると、村人から聞いた遺跡に向かう。
アンシャンが都だったのは、何千年も前の話だ。
地上にその痕跡は残っていない。
だが、地下は違う。
話によると、郊外にある坂を下り、穴の中に入っていくと、地下にある古代都市にたどり着くと言う。
坂の途中には巨大な魔犬がいて、進路を阻んでいると言うが……。
「魔犬ねえ。狗神の眷属かな」
「アンシャンを守るは三ツ首の魔犬。そは都を守護する門番なり。凍える吐息は人の生命を吹き消し、飛爪、血の雨を降らさん」
村で教えてもらった古い歌をマリーが諳んじる。
「ただの獣でやがりますよ。ちーっとばかりでかいですが、狗神のような理不尽な神力は持ってないですよ。まあでかいんで、物理的な力は強いですがね」
アンヴァルは魔犬を知っているようだ。
当然、ファリニシュも知っているのだろう。
「イスタフルの軍は討伐しなかったのかい?」
「結界の外には出てこねーでやがりますし、わざわざこんな田舎に討伐に来ないですよ。そんな暇人は、アラナンくらいでやがります」
いや、ぼくも暇人ではないんだけれど。
とはいえ、マタザほどの強敵でないと知って安心した。
ファリニシュもいるし、魔獣の討伐には慣れている。
これでも、学院の迷宮は一人で踏破したんだ。
「アラナンと迷宮行くのは初めてね。ちょっと楽しみだわ」
「せやな。うちも年次がちゃうし、一緒には行けんかったし」
「アラナンは一人でどんどん進んで行くから、後追うの大変だったのよ。入学してすぐは、そこまですごいとは思わなかったのに」
「主様の魔力の扱いは、細やかではなさんしたな」
なんだろう。
本人を目の前にして、噂話はやめてほしい。
「それで、遺跡に続く坂ってのがこれかな」
山中に二本の石柱が立っている。
石柱の上部に縄のようなものが巻かれており、石柱同士を結んでいた。
そして、その間の空間は闇に包まれており、明らかに通常の空間とは異なって見える。
「いややわあ。うちの毛え逆立ってきよる。なんなんこれ」
「瘴気……? あの黒い空間から漏れているようね」
「濃密な魔力の波動だな。並みの魔族よりかなり強力なものだ。三ツ首の魔犬、侮っているとまずいかもね」
「このまま入ってくのはいやよね。ちょっと待って。やってみるから」
マリーが聖杯を取り出すと、頭上に掲げて二言、三言呟く。
聖杯の発する光が黒い空間に突き刺さり、その闇を突き通した。
闇が、霽れる。
石柱の間に、地下へ続く緩い下り坂が続いている。
光の先から、低い唸り声が響いていた。
あれが、魔犬か。
先頭を、進む。
ぼくの後ろにマリー。
その後ろにファリニシュ。
ジリオーラ先輩は最後尾。
アンヴァルは、ついてこない。
外で待っているそうだ。
「イスタフルなのに、気温が下がってきているな」
「寒くなってきたわね……。でもこれ、普通の温度じゃないわよ。魔力による冷気。この先にいる存在が、温度を下げているのよ」
まあ、メートヒェン山ほどじゃない。
あの氷河と吹雪を経験した後じゃ、この程度の冷気はかわいいものだ。
ぼくが周囲の領域を掌握して温度を上げると、マリーとジリオーラ先輩はほっとした表情を浮かべた。
「便利やな。温うなると勇気も湧いてくる気がするで」
「そうね。冷え込むと心まで凍てついてしまうもの。暖かさって大事よね」
「──おしゃべりはそこまでだ。出たぞ」
坂の途中に、巨大な影が蹲っている。
全長は五十フィート(約十五メートル)以上はあるだろうか。
漆黒の毛並みに赤い瞳。
めくれ上がった口から覗く牙は、獰猛な輝きに満ちている。
そして、その首は三つ。
アンシャンを守護する三つ首の魔犬。
ひとつの頭ごとに四つの目がある。
白い息が漏れると、氷の粒がキラキラと舞った。
サグディード。
それが、この魔犬の名前だ。




