第三十五章 狗神 -9-
ダームガーンの戦いは、シルカルナフラ軍の勝利で終わった。
マタザと互角に戦えるファリニシュを抑える札が向こうになかったことが、こちらの勝因と言えるだろう。
フワルシェーダを討ち取ってなかったら、もう少し苦戦していたかもしれない。
ヤフーディーヤ軍の上級指揮官の多くも戦死していたが、大将軍のアシュカーンは健在であった。
彼が敗軍をまとめ、ハーフェズに降伏を申し出てきたことで、この戦いが終わったと言える。
将軍で生き残ったのは、アルキンとバハーラムの二人しかいなかった。
バハーラムはアシュカーンと一緒に降伏してきたが、アルキンと麾下の騎馬隊は行方を眩ませて消息を絶っていた。
損耗したハーフェズの軍にも追撃を行う余力はなく、再度の襲撃を警戒して哨戒は怠れなかった。
大功を立てたイ・ラプセルの騎馬隊には、一日の完全休息が与えられた。
正直、聖杯の神秘を授かったぼくに休息は必要なかったが、ここは有り難く受け取ることにする。
肉体は賦活して精力に溢れていたが、精神は疲労していた。
マタザとの対決は、刹那の攻防が命取りになる。
しかも、最後に多大な集中力を要求されたのだ。
昼近くまで寝ていたとしても、許してほしいところではある。
「いつまで寝てやがるんですか。もう太陽神の馬車も中空に差し掛かる頃合いでやがりますよ」
そんなぼくの思いを無視するかのように、串焼きの肉を頬張りながら、アンヴァルが天幕に入ってくる。
「いや、起きてるよ。ちょっと神の眼で周囲を見ていただけだ。アルキンがいるかどうかね」
ぼくが起きているのを見て、アンヴァルがつまらなさそうな顔になる。
どうせろくでもないことを考えていたんだろう。
「へえ……それで、アルキンの野郎はうろついていやがったんですか?」
「いや、いないね。多分引き揚げたんだろう。後続もない騎馬隊単独では、この平原での奇襲は難しい。そもそも、なんでアシュカーンと一緒に降らなかったんだろうね」
「敵の大将軍によると、騎馬隊は別の指揮系統で動いていたから、連絡が取れなかったらしいですがね」
鵜呑みにはできないが、確かにアルキンの騎馬隊は、ペーローズと渡り合うためにかなり独自の行動を取っていた。
アシュカーンがその行動を把握しきれていなくても不思議はないのかもしれない。
「で、キラキラの皇子がアラナンとババアを呼んでやがりますよ。さっさと行った方がいいんじゃないですか?」
「ハーフェズが? それを早く言えよ」
マタザと指導者を討ったことは、この戦いの最大の功績と言ってもいい。
ハーフェズとしては、その功を認め、当座の褒賞を与える必要がある。
ハーフェズの部下であったら、呼ばれる前に報告に行くべきものだが、ぼくは直臣ではないし、面倒なので全部ノートゥーン伯に任せてある。
仕方ないから向こうから催促が来たのだろう。
呼ばれているのは、ぼくとファリニシュだけのようだし。
天幕の外に出ると、ファリニシュが待っていた。
砂漠に氷雪の領域を顕現させたファリニシュの底知れぬ力は、すでにシルカルナフラ軍に響き渡っていた。
魔王の攻撃を撃退した魔女という評判を、改めて思い出した者も多いようだ。
ハーフェズの許に向かう途中、ぼくとファリニシュには畏敬の視線が遠慮なく向けられてきた。
ぼくらを見た兵がこそこそと名前を囁き合い、それがさざ波のように伝播していく。
正直、面映ゆい。
フェストで優勝したときと違い、賞賛に怖れが混じっているせいもあるだろうか。
恐怖の対象であったマタザを斃した存在など、頭で理解したつもりでも心がついてこれない。
ダームガーンの領主館に戻っていたハーフェズであるが、まだ軍装は解いていなかった。
傍らには、護衛のダンバーさんと神官長バルタザールだけが控えている。
護衛の騎士たちは、部屋から追い出してしまっていた。
「よくやってくれたな、アラナン。流石わたしが見込んだ男だ。あのマタザを斃すとは、詩人がこぞって歌にする勲となろう」
「大袈裟な。クリングヴァル先生なら、手こずらずに斃していたさ。でも、奴の本気の力を解放させずに済んでよかった。あの一撃を抑え込まなかったら、逃げ遅れた部隊は壊滅していただろうし」
公式な場ではないようなので、友人としての口調で話した。
神官長が何か言うかと思ったが、無表情を貫いて特に動きはしない。
ぼくらの関係を知っているのだろう。
「破壊の衝撃か。確かに、マタザの最期の一撃に込められていた神力は桁外れであった。本陣からでも、その力の恐ろしさに総毛立ったくらいだ。アラナン、よくあれを抑え込めたな。どうやったのだ?」
「なに、領域支配の応用さ」
わざと、涼しい顔で言ってやる。
「神力の使い方を一段階上げたんだ。飛竜の試験を受けていなかったら、勝てなかったな」
「流石はアラナン様でございます」
静かに控えていた執事が微笑んだ。
ぼくはハーフェズとイスタフル語で話していたが、ダンバーさんは綺麗なアルビオン語で話してきた。
「さぞ、アセナ・イリグもお喜びになるでしょう。ようやく神力の秘奥の扉を開けたか、と」
「そうかな」
ダンバーさんは、ぼくの魔法陣魔法の師でもある。
本物の戦士である彼に褒められると、素直に嬉しいと思えた。
「クリングヴァル先生には、まだ使い方が甘いと怒られそうだけれど……」
「彼は素直ではございませんからね」
ダンバーさんは、優雅な微笑みを崩さない。
「とは言え、これで魔王の軍団に立ち向かう目処も立ちそうですな。アセナ・イリグはそう簡単にヘルヴェティアを離れられません。スヴェン・クリングヴァルとアラナン様が、二振りの刃となるでしょう」
やはり、ぼくにマタザを任せたのは、この先を見据えてのことだったのか。
飛竜かクリングヴァル先生が来れば、簡単に片付くと思っていたんだ。
だが、あえてぼくを行かせた。
そうしなければならない事情が、ヘルヴェティアにはあったんだろう。
「ま、それはさておき、二人にはこれを渡したいと思ってな」
話が逸れたと思ったか、右手でダンバーさんを制すると、ハーフェズが二つの指環を取り出した。
ひとつは紅玉、ひとつは青玉の指環だな。
「帝国伝来の宝石でな。火の精髄と水の賜物だ。特に魔法の道具ではないんだが、ヒッサール家の紋章が入っている。それを見せれば、帝国では色々と融通が利くはずだ」
火の精髄をぼくに、水の賜物をファリニシュに。
どれくらい価値があるかはわからないが、こういうのは様式美だ。
恭しく押しいただき、感謝の言葉を伝える。
ファリニシュも、如才なく受け取っていた。
ぼくより、数段優雅に受け取っていたな……。
「ところで、ここからが本題だ」
これで終わりかと思っていたら、ハーフェズにはぼくらを呼んだ別の理由があったようだ。
「マタザが何故イスタフルに来たのか、その理由はわかるか?」
珍しく、ハーフェズの目が真剣だ。
かなり重要な話なのだろう。
ファリニシュも、小さく頷いている。
どうやら、あの男はただイスタフルを屈服させに来ただけではないようであった。




