第三十五章 狗神 -5-
恐慌。
戦場に突如出現したその暴力的な気配に、敵味方の区別なく一斉に統率が乱れた。
武器もなく縛られたまま凶悪な獣の顎の前にいるような。
そんな恐怖を強制的に植え付けられる。
「主様」
それはイ・ラプセルの騎馬隊とて例外ではなかった。
みな、凍りついたように身動きひとつできないでいる。
だが、唯一動じない声があった。
ファリニシュの、落ち着いたいつも通りの声。
「マタザが動き出しなんした」
「──ああ」
ゆっくりと、気配が前進してくる。
純粋な超越者による殺意の発露。
人は、それだけで怯えて動けなくなる。
「あれが、マタザか」
狂ったように走り出したドラーニ部族の騎兵が、槍の一振りで弾き飛ばされる。
強大な魔力の障壁も、紙のように破られている。
パワーが桁外れなのか?
いや、あれは神力と魔力の差だ。
この世界のエネルギーである魔力は、あくまでこの世界の法則に沿って存在している。
だが、神力にこの世界の法則は通用しない。
使い方によっては、ああいう芸当も可能なのだ。
「行くぞ」
ノートゥーン伯の声で、我に返る。
そうだ。
マタザが動き出したとき。
それは、ぼくらの出番である。
「マタザの部下は、わたしたちで相手をする。マタザを止めるのはアラナン、お前に任せるぞ」
「任された」
自信ありげに頷いたが、内心の不安をマリーとジリオーラ先輩には看破されている気がする。
だが、二人とも止めはしない。
あれの相手をすることが、今回学院から与えられたぼくのミッションだと理解したからだろう。
ファリニシュが高空へと上がっていく。
邪魔されない位置から敵の本陣に仕掛けるつもりだ。
あまり敵陣に近付きすぎると、ファリニシュの攻撃の巻き添えを食らう。
それを知っているアフザルとぺーローズは、すぐに兵を散らし始めていた。
無人の野を行くが如く、マタザが前進する。
その歩みはゆっくりであるが、止まることはない。
錯乱して突っ込む愚者は、近寄ることもできずに弾け飛んでいる。
一閃で魔族が肉片に変わる威力。
学院の高等科生でも、受ければ命はない。
ぺーローズですら、相手にならなかったのだ。
神力の使い方が、豪勇無双に特化しているようなやつだ。
ブンゴほどの技の冴えはなくても、戦場では遥かに恐ろしい。
あいつが言っていた意味が、よくわかる。
「行くぞ、アンヴァル」
「近付くまでは行ってやりますがね。あれの相手は、アラナン一人でやりやがれですよ。アンヴァルは、あんな化け物の相手はごめんです」
「大丈夫だ。もとから、ぼく一人でやるつもりだから」
アンヴァルは、ファリニシュほど戦闘に特化した眷属ではない。
いまのぼくの騎乗戦闘の技術も鑑みれば、地上戦の方が勝ち目はある。
それには、マタザを馬上から引きずり下ろさなければならないが。
「ははははは! 出てきたな、氷雪の魔狼!」
ファリニシュが舞い上がった空を見上げながら、マタザが哄笑する。
「上様から言われていなければ、その首わしが引っこ抜いて生き肝を喰ろうてやるものを! 今回は、あの太陽神の使徒を屠るだけで満足してやろうぞ!」
マタザの槍が指したのは、無論ハーフェズだ。
真っ直ぐ、ハーフェズの首を取りに向かっている。
ぺーローズとアフザルの騎馬隊を蹴散らし、そろそろシーリーンの歩兵部隊にまで到達しようとしていた。
「ハライヴァ兵ー!」
シーリーンの怒声が、崩れかけた歩兵たちの耳朶を打った。
「此処が我らの死に場所ぞ! 一歩でも下がる者は、ハライヴァの勇者の名折れ。笑って皇子殿下の盾となって散れ!」
シーリーンはすでに、限界を超えて戦っていた。
目は血走り、唇も噛み破って血が垂れている。
狂気としか言いようがない状況にあったが、戦場という特異な空間では、むしろ狂気こそが恐怖を退ける唯一の策であった。
だが、マタザはその抵抗を歯牙にもかけぬ。
十数本の槍が、マタザの身体に突き立つ。
いや、突き立つと思った瞬間、槍の方が粉々に砕け散る。
マタザの障壁とぶつかって、武器の方が負けているのだ。
回避すらする必要がない。
そして、無造作に振った槍で、数十人の兵がミンチと化す。
「無駄な抵抗を! ──まあ、わしを足止めしている間に、あの男を討つつもりであろう。魔狼が、本気となるようだしな」
上空に消えたファリニシュは、豆粒のようにしかもう見えない。
だが、その上空から、マタザに勝るとも劣らないほどの気配が生まれる。
ファリニシュが人化を解き、本性を顕現させたのだ。
同時に、熱砂の大地に急速に冷気が忍び寄ってくる。
「あの狼め、砂漠を雪山に変えるつもりか。ふん、この気温では、流石の彼奴も時間がかかるだろうよ。先にわしが、太陽神の使徒を始末しようぞ」
マタザの前進は止まらぬ。
シーリーンの兵が必死に立ちふさがるが、足止めにもならない。
その後ろに続くマタザの随臣など、武器を振るいすらしていない。
マタザ一人で、十分軍を崩壊させられる。
それでも、シーリーンは退かない。
ぺーローズやアフザルは撤退したのに、何故彼女は退かないのか。
無駄に兵を死なせるだけではないのか。
いや、それ以前に──。
マタザの前に立ち塞がるのは、無謀だ。
「推参なり、魔王の眷属!」
「勇気と無謀を履き違えるとは」
叩き付けられた剣が、無数の破片へと変わる。
魔力を込めた攻撃も無意味。
マタザの防御は崩せない。
呵々と笑う。
技でも何でもなく、ただ振り上げた槍を振り下ろす。
それだけで、シーリーンの命は消し飛ぶ──はずだった。
「ほう」
初めて、マタザの目に興味の色が浮かぶ。
「わしの槍を受け止めるとは、お主がアラナン・ドゥリスコルだな」
「よくご存じで」
アンヴァルの背から飛び降り、間一髪マタザとシーリーンの間に割り込んだ。
神剣を抜き、神力を全開にして、マタザの一撃を受け止める。
激しい衝突音と衝撃が、ぼくの耳と腕を痺れさせた。
「お主と手合わせた者から聞いたゆえな。わしの撃ち込みを防いだのは褒めてやるが、まだ本気ではないぞ。付いて来られるか?」
何処か愉しそうに、マタザが嗤う。
これはあれだ。
次は受け止めても、周囲に被害が出るやつだ。
「シーリーン将軍! 後はぼくに任せて退いて下さい!」
「ふざけるな! 敵を前にして、退けるか!」
「ぺーローズ将軍は退いているだろうが! 兵を無駄に死なせる気か! こいつの相手は、ぼくに任せろよ! ハーフェズにも、言われているだろう!」
ぺーローズとハーフェズの名を出すと、シーリーンはがんと殴られたような表情を浮かべた。
新任の将軍だけに、シーリーンは周りが見えなくなっている。
意気は買うが、それでは兵の命はいくらあっても足りない。
マタザ相手に、誰かを庇って戦うとか無理だ。
ハーフェズの本陣から、後退の銅鑼が鳴り始めた。
退かないシーリーンに、ハーフェズも業を煮やしたのだろう。
それを聞き、しぶしぶシーリーンも撤退の指示を下す。
ぺーローズやアフザルと比べれば、判断が遅いな。
だが、勇敢さと使命感は持っている人だ。
生き延びれば、いい指揮官になるんだろう。
「もういいのか?」
退屈そうに、マタザが聞いてくる。
律儀にも、シーリーンの撤退を待っていたようだ。
あれだけの闘気を撒き散らしながら、なぜ待っていたのだろう。
「お待たせしたようで。さあ、やりましょうか、魔王の眷属」
「くく……善哉。久しぶりに退屈せずに済みそうだ、小わっぱ!」
マタザの槍に、神力が集束する。
その集めた力だけで、大地が震えていた。




