第三十二章 聖戦の加護 -10-
サナーバードが陥ちた。
セリム・カヤの騎馬隊を撃破したシルカルナフラ軍団は、北上して一気にサナーバードに攻めかかった。
この攻略の中心になったのは、シーリーンの歩兵部隊である。
彼女の部隊には、魔導砲という攻城兵器が二門あった。
魔力を籠めると増幅され、撃ち出された魔力弾が着弾地点で爆発する。
ハーフェズのような術者じゃなくても、魔力さえ潤沢ならば気軽に扱えるのが利点だろう。
東方の都市は大抵城壁に大規模な障壁が施されているものだが、それをこれで撃ち破ろうというのだ。
だが、セリム・カヤを欠いたサナーバードの兵の戦意は高くはなく、シーリーンが迫ると、陣を組んでいる間に開城し、降伏してきた。
ハーフェズは、労せずイスタフル東方最大の要所に入ったのである。
この戦いでは、ぼくたちイ・ラプセルの騎馬隊の出番はなかった。
騎兵は攻城に向いていない兵科だという理由もあるが、実態はぼくとトリアー先輩が重傷を負ったのが大きな要因であろう。
「あっさり終わっちまったねえ、あたしらの出番も来るかと思ってたのにさ」
重傷者の片割れであるトリアー先輩は、戦斧を担いだまま詰まらなさそうに地面を蹴飛ばしていた。
「なんかこう、力が溢れて止まらないんだよ。──アラナン、あんたもそうなのかい?」
「ええ、まあ」
トリアー先輩の気持ちは、ぼくにしかわからない。
二人の傷の重さを問題視したファリニシュが、密かに聖杯の使用の許可を出したのだ。
お陰で怪我は一瞬で癒えた。
全身の細胞が賦活するような感覚と、かりそめの全能感がぼくに宿る。
これを、トリアー先輩も味わっているのだろう。
間違いなく五感も研ぎ澄まされ、神の眼を使わなくても、まわりの状況が掴める。
いまなら、ブンゴの太刀筋も見切れると錯覚しそうだ。
「──大人しくしてろよ。怪我人が元気に前線に出たら、訝しく思われるだろう」
ノートゥーン伯に窘められ、トリアー先輩は不貞腐れて座り込んでしまった。
イスタフルの酒は水みたいだと呟きながら、瓶から麦酒を呷っている。
伯爵は、ため息を吐いた。
サナーバードに入城して数日後、ようやくハーフェズと太陽神教団の軍団が到着した。
これまでのところ、ハーフェズは軍の指揮をメルキオールに一任し、前線には出てきていない。
もっとも、怠け者の彼のをよく知る人間なら、納得できる布陣である。
できる人間がいるなら、そいつに任せる。
ハーフェズ・テペ・ヒッサールというのは、そういう男だ。
だが、この対魔王の旗頭だけは、他人に任せることができない。
イスタフル帝国より東は、ほぼ魔王の軍団によって征服されてしまっている。
タメルランが抵抗しているうちにイスタフルを掌握しないと、次はイスタフルに魔王の軍団が雪崩れ込んでくるのだ。
やりたくないことは基本さぼるハーフェズだが、自分しかできないことがあるならその任務から逃げることはなかった。
「ヤフーディーヤの指導者が、決戦を挑む気になったようだ」
ハーフェズは、サナーバードに三日滞在した。
その間に、メルキオールに黒石教団の正規軍の動向を調べさせている。
その情報を、ノートゥーン伯はきちんと仕入れてきていた。
「セイレイスとの国境に五万規模の軍が集結し、こちらには十万の兵が向かってくる。セイレイスの兵は陽動の可能性が高いと見切ったか、動員を抑えてこちらに主力を回してきたな」
「そりゃあ、皇帝ヤヴズも見くびられましたね」
あの豺狼のような皇帝の顔を思い出す。
あの男は、好機と見れば躊躇いなく喉笛に噛みついてくる。
味方であっても、一瞬でも隙を見せられない。
ヤフーディーヤの対応が甘ければ、イスタフル西部の国境は大幅に後退することになるだろう。
「それだけ、指導者も皇子殿下を危険視しているのだろうな。こっちには、大将軍アシュカーンが出てくるぞ。それに、マタザとその麾下も参陣している。間違いなく、死闘になるだろう」
セイレイス方面の指揮官はオーランという将軍で、なかなかの知将らしい。
少ない兵力でセイレイス軍を足止めし、時間稼ぎを期待されているのであろう。
その間に、主力は一気にハーフェズの軍団を叩き潰す。
大軍を移動させるなら、進軍は大陸交易路を使うのが最も容易だ。
ハーフェズは、サナーバードからそのまま西進するだろう。
アシュカーンは、ヤフーディーヤから北上し、大陸交易路に出た時点で東に転進する。
遭遇した場所が、決戦場となるだろう。
サナーバードでも降兵を受け入れた結果、ハーフェズの軍団は兵力だけは膨れ上がっていた。
歩兵の大隊長を新たに六人シーリーンの指揮下に入れ、歩兵は五万を数える。
セリム・カヤ麾下のトゥルキュト人傭兵の大半は散ってしまい、サナーバードには戻っていなかったが、それでも五百騎ほどはペーローズの募集に集まり、彼の騎馬隊は二千五百騎になっていた。
これに、太陽神教団のバクトラ兵と、パシュート人の騎馬隊、そしてぼくらイ・ラプセルの騎馬隊で全軍だ。
兵力では劣勢であることは否めないが、戦えないほどの差ではない。
ハーフェズやぼくが本気になれば、大規模な属性魔法や魔術で幾らでも兵力差を覆せる。
もっとも、黒石の指導者の実力を侮るわけにもいかない。
セイレイスの長老が、あれだけの術者だったのだ。
イスタフルに君臨する指導者が、あれ以下だとは思えなかった。
「主様、マタザを侮りなさんすな。彼奴はヒトではござんせん。わっちと同じ、下級神でござんす」
ノートゥーン伯の軍議が終わり、ほっと一息ついたとき。
狼が爆弾発言をかましてきた。
「えっ?」
思わず、聞き返す。
そりゃ、一瞬何かの間違いだと思うよ。
話が飛びすぎていて、ついていけない。
「大魔導師から、そう言付けがありんした。彼奴は狗神──下級の動物神でござんすが、ヒトよりは大きな力を持っておりんす。魔王の眷属でござんしょう。独り身で動くことが許されているのも、それゆえでありんすな」
「狗神って──ファリニシュと同格の存在なの?」
「わっちは誇り高き狼でござんすよ。犬と並べられるのは、いい心持ちはしなさんす。北方なら、狗神程度相手にもなりんせん」
ぷいと、ファリニシュがそっぽを向いた。
砂漠では、ファリニシュの権能は、かなり威力が落ちる。
つまり、イスタフルの戦いでは、マタザは強敵だと言うことだろう。
でなければ、わざわざファリニシュがぼくにそれを告げるはずがない。
マタザを、ぼくが何とかしてくれ、と言っているのだ。
「メートヒェン山での悪夢が甦るな……。また、ああいう存在と戦うのか」
「しゃんとなさんせ。クリングヴァルが主様を鍛えてきたのは、このときのためでござんしょう。その実をもぐのは、いまでござんすよ」




