第三十二章 聖戦の加護 -9-
絶好の好機であった。
恐るべき手練れであるブンゴに対し、一撃を入れられる機会はそうそうない。
だが、ファリニシュが凍らせたその一瞬は、間違いなく届いたはずだ。
それを、なぜ咄嗟に回避に切り替えたのか。
自分でもわからない。
あの瞬間は、ブンゴは身動きが取れないだけでなく、魔力もファリニシュの氷結を破るのに使っていた。
水月すら使えなかったはずなのだ。
だが、それでもブンゴは攻撃を仕掛け、そしてぼくはそれを外した。
茫然と目を開け、硬直しているブンゴを見ればわかる。
「──無想剣ヲカワシタダト……。アリエン、回避不能ノ奥儀ゾ、コレハ……」
ブンゴは剣を振ってもいないし、魔力も放っていなかった。
それでも、やはり攻撃をしていたのだ。
「──まあ、愚痴りたいのは、こっちもだけれどね」
なんとかかわしているものの、ブンゴに攻撃が当たる気がしない。
拳の間合いまで、踏み込めないのだ。
ならば、間合いの不利をなくすしかないのか。
フラガラッハを使えば、お互いに剣の間合いとなる。
だが、剣でブンゴに勝てるか?
「やってみるしかないか……」
アセナの両手を前に出した半身の構えを解き、だらりと両手を下げる。
踏み出した右足も下げ、自然体で立つ。
「──無形ダト?」
ぼくの構えの変化に、ブンゴは苛立ちを募らせた。
気持ちはわかる。
ぼくは、拳や棒の技は修得したが、剣の技法にはそれほど詳しくない。
ブンゴから見れば、莫迦にされたようなものだろう。
「フザケオッテ。ソレホド死ニタイカ!」
裂帛の気合いとともに、ブンゴの右足が前に出る。
怒りからか、読めなかった初動が見える。
ブンゴにしては、甘い一撃。
来るのは、上から唐竹割りの一刀両段。
威力を重視してか、籠められた魔力は今までで一番多い。
薄皮一枚の回避では間に合わないようにしているのだろう。
だが、来る技がわかれば、対応はできる。
本来、速度ではぼくの方が僅かに上だ。
右手にフラガラッハを出現させると、下から切り上げる逆風で迎撃に出る。
一刀両段と向風。
衝突した刃が、激しく火花を散らす。
だが、拮抗は続かない。
神剣解放によって強化されたフラガラッハが、魔力をまとったブンゴの刀を僅かな逡巡の後に斬り飛ばす。
返す刀で無防備なブンゴを両断しようとしたが──。
その前に、瞬間移動したかのように三歩後退していた。
あれでは、剣の間合いには遠い。
「大キナ過失ヲ、二ツシテイタヨウジャナ」
斬られた刀を眺めながら、憮然としたようにブンゴが呟く。
「侮ッテ神刀ヲ持ッテコナンダコト。ソシテ、遊ビデ剣筋ヲ見セスギタワ」
斬られた刀を投げ捨てると、ブンゴはからからと嗤った。
「カヨウナ出逢イモアルカラ面白イ。小ワッパ、今日ハ見逃シテヤルワイ。目当テノモノハ、モウ手ニ入レタシノウ」
大胆にも、ブンゴが背を向け、悠然と歩き始めた。
隙だらけの好機だが、誰も踏み込めない。
あの無想剣とやらが、剣がなくても使えるなら、踏み込んだ瞬間には斬られているかもしれない。
そんな恐怖に縛られ、誰も動けなかった。
「主様、彼奴は行きなんした」
肩にファリニシュの手が置かれると、一気に緊張が解け、思わず膝をつく。
ブンゴに斬られた傷は、思ったより重い。
緊張が解けると、力が入らなくなった。
「大丈夫か、アラナン。──しかし、とんでもないやつだったな」
ノートゥーン伯の顔は、まだ青ざめたままだ。
無理もない。
ファリニシュがいなければ、死んでいた。
伯爵ならば、それがわかっている。
「まともにやれば、十回やって十回負けます。それくらい、技に差があった。飛竜やクリングヴァル先生じゃなければ、相手ができないほどの遣い手です」
「──だが、今回はいない。わたしたちで、相手をせねばならん。とはいえ、どうしたものか。学院の高等科生ですら、相手にはならん」
「そうすぐには、来なさんしょう。あれは、軍人ではありんせん。魔王の個人的な側近でござんす。こちらにはたまさか来ていただけでござんしょう」
「──はん、偶然で殺されたんじゃ、やってられないさね」
よろよろと、トリアー先輩が歩いてきた。
ファリニシュの再生で、何とか命は繋ぎ止めたようだ。
「この国に来て、魔族といってもたいしたことはないと思っていたけれどさ。──がつんとやられたよ。あんなの、あたしらじゃどうしようもない」
「アラナンは、よくかわせたな、あの剣を」
「スピード自体は、伯爵より遅かったですよ。ただ、兆しが読めないから、かわせないだけです。意を消すのが、抜群にうまい。──最後だけ、怒りのせいか消し損ねていましたがね。あれで、合わせられた。もう二度と、通用しないでしょう」
そうこうしている間に、散開していた高等科生たちが戻ってきていた。
囮の大役を果たし、疲労困憊の者が多い。
だが、彼らもこの惨状を目の当たりにして、理解が追い付かずに目を白黒させていた。
「──勝ったようには、見えないわね」
遠慮なく口を開いたのは、ビアンカならではか。
「──いや、一応、勝ちですよね?」
ファリニシュの治療を受けているぼくを、ふんとビアンカが見下ろしている。
自分もサナーバード軍に散々追い回されていた割りには、まだ強気でいられる余力があるようだ。
「サナーバード軍は壊滅したし、セリム・カヤも討った。勝ちと言ってもよかろうな」
口ではそう言うものの、伯爵の顔色を見て、勝ったと喜べる者はいなかった。
それを見てとったティナリウェン先輩が、軽く剣の柄を数度叩いた。
「勝ったんなら、勝ちどきだ。辛気くさい顔は、後に取っておけ。エリオット、将がそれじゃ、兵は不安になるだけだぞ」
流石はティナリウェン先輩だった。
高等科で一番の武人なだけのことはある。
イザベルも尊敬しているらしいし。
「──そうだな、悪かった、イシュマール。わたしは、考えすぎるのが悪いくせでな」
伯爵は、まだブンゴが消え去った砂漠の彼方を見ていた。
不思議と、砂の上に足跡は残っていない。
あの達人なら、それも驚くべきことではないのだろう。
何かを振りきるように首を数回振ると、伯爵は剣を抜いて掲げた。
「イシュマールの言う通りだ。セリム・カヤの討ち取りとサナーバード軍の撃破は成った! このいくさ、わたしたちの勝利だ!」
ノートゥーン伯の叫びに、ティナリウェン先輩とトリアー先輩が、拳を突き上げて応えた。
集まってきていた他の高等科生も、合わせるように歓呼の声をあげる。
「ほら、あんたもよ」
ぽかりと、ビアンカがぼくの頭を叩いた。
いつになっても、この同期はぼくに対して暴力的だな!
「──怪我人だぜ。優しくしてくれよ」
「甘えてんじゃないわよ、アラナン・ドゥリスコル。あんたはもう学生じゃないんでしょう? 自分の責務を果たしなさい」
責務。
そういや、ビアンカ・デ・ラ・クエスタも貴族の出身だった。
平民の出のぼくとは、考え方が違う。
だが、ここは彼女の言うとおりかもしれない。
指揮官はノートゥーン伯だが、この部隊の実質的な支柱はぼくなのだ。
「──わかったよ、ビアンカ。だが、どうせくれるなら拳よりパンにしてくれ。──そこの腹ぺこ馬が、いまにもぼくの足を食い出しそうなんだ」




