第三十二章 聖戦の加護 -6-
「──ブリジット!」
ノートゥーン伯の声が響く。
ゆっくりと、トリアー先輩の身体が、馬上から滑り落ちていく。
斬られた──だが、誰に、何処から!
全く、気配を感じなかった。
神の眼を起動しているにも関わらず。
しかも、側には、ファリニシュがいたにも関わらず、だ!
索敵に関しては、ファリニシュはぼく以上の鋭さを持っている。
魔力や気配を探るだけでなく、匂いも探ることができるのだ。
だが、その全てをかいくぐって、トリアー先輩を狙った。
何故、トリアー先輩だったんだ?
普通、ぼくを狙うはずじゃないのか?
「主様!」
ファリニシュが、一点を指差す。
いつの間にか、男が一人佇んでいた。
血濡れた刀を構え、静かに気息を整えている。
その魔力と気配のなさときたら、飛竜に匹敵するのではないか、と思わせるほどだ。
間違いなく──こいつは本物の達人だ。
「魔王麾下の響談衆の一人だよ! マタザだけでなく、こいつも来ていたのか──陰のブンゴ、タメルランの大将軍を斬ったと言われている男だ」
メルキオールから、「声」が届く。
遠くからでも、視ているのだろう。
指揮には有効な魔法を使えるようだな。
だが、嬉しい情報ではない。
この背中にちりちりと走る戦慄。
男が視線を向けているのは、ファリニシュだ。
こいつは、ファリニシュだけを警戒している。
「主様、ブリジットはまだ息がありんす。わっちの手を塞ぐために、わざと生かしなんした」
ファリニシュが、トリアー先輩を抱え起こす。
再生で、何とか命を繋ぎ止めているようだ。
「兵を指揮する武将と違い、響談衆は個の武術に特化した連中だよ。マタザも強いが、そのブンゴ、武術だけならマタザ以上に強いかもしれない」
メルキオールの有り難くない警告。
男の剣先は、まだファリニシュに向いている。
ぼくは、警戒するに値しないと言うわけか。
確かに、飛竜やクリングヴァル先生でもなければ危険な相手かもしれない。
だが、ここまで舐められるとは思っていなかった。
「ハーフェズの決起を知って、魔王が情報収集に寄越したんだ。響談衆は、魔王の目であり、耳であり、剣なんだ。こちらの戦力を測って、可能なら何人か首を持ち帰る──威力偵察の任務を帯びていることが多いんだよ」
タメルランを攻略中だと言うのに、そっちを放置して足を伸ばしたと言うわけか。
魔王め、イスタフルの重要性をよくわかっている。
大陸の中央部に位置するここが落ちれば、セイレイス帝国、そして西方諸国も抗しきれまい。
「──アンヴァル、ごめん」
「はん、アラナンがアンヴァルに乗って戦えるほど器用じゃないのは知っているですよ。とっとと降りて、やっつけてきやがれです」
アンヴァルの言うとおり、ぼくの騎乗技術はそれほど高くはない。
このブンゴという男も騎乗してはいない以上、地上戦の方がやりやすい。
ぼくの戦闘技術の根幹は、やはりアセナの技なのだ。
大地に降り立ち、アセナの構えを取る。
すると、僅かにブンゴの眉が動いた。
明鏡止水のようであった剣先に、微かなぶれが生じる。
ファリニシュとぼくと、どっちを警戒するかの迷いが生じたのか。
「悪かったな、見誤らせて。ぼくは、馬上の戦いは得手ではないんだ。アセナの拳士は、大地に立ってこそその力を十二分に発揮する。地上に降りた以上、そうそう無視はさせないよ、響談衆」
「──覇王ノ拳」
ぼくの構えを見たブンゴが、片言のパールサ語で呟いた。
「トゥルキュトノ王家ニツタワル秘拳。ダガ、ウシナワレタト……」
「構えを見ただけでわかるのか。タメルランで、構えだけでも見たことがあるのか。いにしえのトゥルキュト人の王家の末裔が、西へ西へと移動した結果、その秘技はヘルヴェティアに伝えられた。いまこそ、その技が東へと帰るとき」
間合いまでは、やや遠い。
刀を持つブンゴの方が、先に間合いに入る。
だが、彼はまだ、その刃をこちらに向けていなかった。
「剣ノ振リ方ハ稚拙ダッタガ、無手ノガマシナヨウジャノ」
「魔王直下の腕前、見せてもらおう!」
間合いの外から、疾跳歩で跳び込む。
攻撃まであと三歩はあると思っていたはずだ。
だが、アセナの歩法は遠間を接近戦に変える。
先制の一撃。
障壁を領域支配で無効化すれば、例え魔族でも一撃で殺せる。
だが、その奇襲が。
僅かな足捌きでかわされた。
「カカカ、直線的ナ攻撃ジャノ」
初めて、切っ先がファリニシュから外れる。
摺り足で右に移動したブンゴが、そのまま左下から斬り上げてくる。
疾い。
いや、魔力を消されているせいで、技の出所が掴みにくいせいだ。
太陽神の翼を全開にしたぼくの方が、僅かに速い。
切っ先が頬をかすめる。
斬撃をかわされたブンゴの目が、僅かに細くなった。
それほど意外だったか?
「逆風ヲカワストハ。侮レヌ相手ノヨウジャノ」
ブンゴの体より、力みが抜ける。
だらりと下げられた刀。
一見して、隙だらけに見える。
だが、撃ち込む隙が、ない。
「奥儀、無形。コレヲ使ウコトニナロウトハノ」
「主様」
ファリニシュの警戒の声。
わかっている。
あれは、撃ち込むのを誘っている。
いわば、迎撃の構えだ。
こちらの力の流れを読んで、それを利用して一撃を決める気だ。
直線的なアセナの拳だけだと、相性が悪いかもしれない。
だが、ぼくの拳は、それだけではない。
無造作に、一歩踏み込む。
まだ、間合いではない。
ぼくの間合いまでは、もう二歩。
さらに、一歩詰める。
もう、刀は届くはずだ。
それでも、ブンゴは動かない。
ぼくの拳が出るのを、待っている。
典型的な受けの技。
全身から、汗が浮き出てくる。
ブンゴの威圧が、ぼくの足を鈍らせる。
待ち構えられるところに、あえて足を踏み入れる。
ぼくの全身が、それが危険だと伝えてくる。
だが、そんなことはわかっているのだ。
それでも、踏み込む。
アセナは、攻めの拳なのだ。
突き出す右拳は、竜爪の形。
アセナの基本にして奥義。
その攻撃に対して、ブンゴは左足を一歩引く。
剛に対しての柔。
迎え撃つように、再び逆風が斬り上げられる。
その一刀で、ぼくの命を断つつもりだったか。
だが、来るとわかっていれば、対処できる。
右足を軸に回転し、斬撃を回避。
そして、左肘を叩き込む。
旋火。
アセナを直線的と思っている敵には、効果的なはず。
だが、斬り上げられた刃が、弧を描くように戻ってくる。
その瞬間、脳裏に黒騎士との戦いが蘇る。
弧月。
あのときの経験が、咄嗟にぼくの身をよじらせる。
「ホウ……浦波ヲモカワスカ」
にたり、とブンゴが嗤った。




