第三十一章 ハライヴァの猛虎 -5-
シンドー山脈は、シルカルナフラの大半を占める大山脈だ。
シルカルナフラの中央は、ほぼこの山脈で覆われている。
平地は、北部の僅かな地域と南部だけである。
その山脈の北麓沿いに、バクトラから西へと続く街道が伸びている。
森の多いヴィッテンベルク帝国と異なり、大地は乾燥してひび割れている。
砂と岩山──。
緑は、たまに灌木を見かける程度だ。
「冬でよかったわね。夏なら、暑さで行軍なんてしてられなかったわ」
それでも、マリーはちょっと暑そうだ。
実際、西方諸国出身のぼくたちにとっては、この気候はあまり歓迎できない。
寒いのには、慣れているんだけれどね。
南方大陸出身のティナリウェン先輩は平気な顔をしているが、一緒にされても困る。
もちろん、その気になれば、ぼくは周囲の温度の調整はできる。
だが、これも調練の一環だ。
ぼくたちはまず、この気候に体を慣らさないといけない。
だから、行軍中はあえて魔術を使わなかった。
「風が砂っぽいのが、どうにも慣れないね」
「そうね。一日行軍すると、服の中まで砂だらけよ。イリヤがいてくれて、助かったわ」
ファリニシュは、行軍が終わると女性陣用に天幕にバスルームを用意している。
男は、外で体を拭いてろとのことだ。
髪まで洗って上気して出てくる女性陣に比べ、随分と差があるものだ。
身なりにこだわるノートゥーン伯やベルナール先輩は女性陣が羨ましそうだが、ティナリウェン先輩などは砂を特に気にもしていない。
慣れているんだろうな。
バクトラからハライヴァまでは、およそ四百四十マイル(約七百キロメートル)の道のりだった。
パシュート人たちは、一人につき三、四頭の馬を連れて行軍していた。
彼らの行軍速度は西方の騎士に比べると迅速で、一日に四十マイル(約六十五キロメートル)は進むことができた。
ゆえに、十日ほどで、ぼくたちはハライヴァへと迫っていた。
その行軍で、注目を集めたのは他でもない、ぼくらの騎馬隊だった。
替え馬を一頭しか持たない太陽神教団の騎兵は、この速度に付いてこれず、遅れがちであった。
だが、替え馬を一頭も持たないヘルヴェティアの十七騎は、楽々とパシュート人に付いていった。
その異常さにパシュート人たちは驚き、ぼくらを見る目が畏れを帯びたものへと変わっている。
貴族出身の高等科生は元々騎乗技術は高いが、最も優れているのは南方大陸の青衣の民であるティナリウェン先輩であった。
それに匹敵する技術を持っていたのは、意外にもビアンカ・デ・ラ・クエスタだ。
スパーニアのモンテカーダには、過去に東方より騎馬民族のアラニ族が流入し、ビアンカにもその血が流れている。
お転婆なのはそのせいかもしれないな。
とにかく、基礎魔法の訓練では音を上げていたビアンカも、この行軍では余裕を見せていた。
ヘルヴェティアの軍では歩兵の訓練しかしないため、騎兵の経験が浅いイザベルのが大変そうだった。
馬が平気でも、騎手の疲労は別だからな。
流石に身体強化を常時維持できない者はもういないが、魔力再循環の練度が甘いと少しずつ魔力を使っていってしまう。
その分疲労も溜まりやすいのだ。
ぼくの騎乗技術はお世辞にもうまいものとは言えないが、乗馬がアンヴァルなのであまり関係なかった。
とにかく落ちなければ、あとはアンヴァルが何とかしてくれる。
意志疎通は会話でも念話でもできるからな。
「大分ハライヴァの斥候が出ているみたいよ。向こうも、シルカルナフラ軍が接近してきているのは、気付いているでしょうからね」
「そりゃ、軍としては異例の速度で進軍してきたけれど、早馬を飛ばしたり、烽火を上げたり色々伝達の方法はあるだろうしねえ」
前軍のドラーニ部族が、かなりの数の斥候を捕捉し、殲滅しているようだ。
猛将と言われているが、ペーローズ・カーゼンプールはただの猪ではないようだ。
かなり力を入れて、こちらの情報を集めようとしている。
「攻略に手間取れば、サナーバードから援軍が出てくるわ」
サナーバードからハライヴァまでは、二百三十マイル(約三百七十キロメートル)ほどの行程だ。
替え馬を使っても、本来一週間はかかるはずだ。
すでに救援要請が出ているなら別だが、これから出そうと言うなら間に合うまい。
だが、ぼくたちは、ペーローズの勇猛さを侮っていた。
彼は、ハライヴァにぼくたちが到着するのを、座して待っていなかったのだ。
「アラナン!」
先頭を行くノートゥーン伯のところに、パシュート人の伝令が駆け込んできていた。
その報告を聞いたノートゥーン伯は、血相を変えてぼくの名を呼んだ。
「どうしたんです?」
アンヴァルを伯爵の横に寄せると、彼は深刻そうに言った。
「奇襲だ。前軍のドラーニ部族が、ペーローズ・カーゼンプールの騎馬隊の襲撃を受けた。被害はさほどでもないが、行軍中の襲撃だったため、かなり追い散らされたらしい。ペーローズは、そのまま駆け去ったと言う。あの男、籠城する気などないぞ。二千の騎兵で、二万の騎兵に、野戦で勝つつもりだ」
「──豪胆な敵ですね。でも、勝つつもりで仕掛けてきたんですかね?」
「どういう意味だ?」
「このあたりは山あいで道も狭いし、大軍が生かせない。奇襲には向いているでしょう。でも、それなら前軍なんて放っておいて、ハーフェズの本軍を襲うんじゃないですかね? 前軍の足を止めたのは、牽制が目的じゃないかなあ」
流石に、どんな猛将でも、二千で二万は殲滅できまい。
勝つつもりなら、大将を狙うしかない。
ぼくなら、ハーフェズが捕捉できるまで、絶対に姿を現さない。
下手に姿を見せれば、こっちの警戒は強くなる。
そうすれば、もう奇襲など通用しなくなる。
「──なるほど、一理ある。すると、ペーローズの目的は時間稼ぎ。そうか、サナーバードの援軍を待つつもりか」
「サナーバードもハライヴァも、守るだけなら歩兵がいれば十分です。二都市の騎兵は合わせれば一万二千。二万とも十分戦いになります」
「地形はやつらの方が熟知している。その通りかもしれないな」
冷静になると、ノートゥーン伯の頭が回転を始めたようだ。
伯爵は理知的で軍事の造詣も深いが、実戦経験が薄いせいか咄嗟の判断が甘いところがある。
そういうときは、ティナリウェン先輩の野性の勘の方が頼りになる場合が多い。
だが、落ち着きさえすれば、伯爵は間違わずに判断できる。
軍事的識見は、ぼくらの中では一番上なのだ。
「イザベル! 皇子殿下に伝令だ。ペーローズの奇襲は、サナーバードの援軍を待つための時間稼ぎの可能性が高いと伝えてくれ。そうすれば、後は殿下が判断して指示を出すだろう。アラナン! お前は空から偵察して、ハライヴァ軍とサナーバード軍の位置を捕捉してくれ」
うわ、人使いが荒いな、伯爵。
まあ確かに、一撃当てて消えたペーローズ・カーゼンプールの騎馬隊の位置は、知っておきたいだろうけれど。
そして、それができるのは、ぼくかファリニシュくらいだろうけれどさ。
「超過労働は夜食三回分なのです」
「黙ってろ!」
ぽかりとアンヴァルの頭を叩くと、ぼくはノートゥーン伯に了承した旨を伝えた。
また、騎馬隊と別行動の単独偵察だが、致し方ない。
他の者じゃあ、空を飛んで付いてこられないんだから。
イザベル・ギーガーが、後方に向かって駆け出していく。
むくれながらも太陽神の翼を出したアンヴァルが、ふわりと飛び上がった。




