第三十一章 ハライヴァの猛虎 -3-
メルキオールと呼ばれた男は、軽快に立ち上がると得意そうに周囲を睥睨した。
「どうも、メルキオールです。皇帝陛下の下で、宮廷書記長官を拝命しております。いやあ、そこのハーフェズとは、幼年の頃からの親友でしてね。正直、こいつがこんなに勤勉だなんて思っていませんでしたよ。ええ、まさか、単独で西方に赴き、ヘルベティアのかの老人の助力を得てくるなんてね。だいたい小さい頃からこいつはいつも昼寝ばかりで、尻拭いは決まってわたしの役目だったんですよ。いやあ、お陰で色んなことをする羽目になりましてね。え、わたしの武勇伝なぞどうでもいい? ま、そりゃそうでしょうな」
「おい」
止まらないメルキオールの言葉に、ハーフェズが面倒くさそうに口を挟む。
「前置きが長いぞ」
「これは失敬。いや、初めての方もいらっしゃるんでね。どうも緊張していけない。緊張すると舌の回りも悪くなるんですよ」
これ以上よくなられてたまるか。
そう思っているのは、ぼくだけではないはずだ。
「それで、今後の方針ですな。何故、わたしが出しゃばって今後の方針を出そうとしているかと疑問に思っている方もいらっしゃるでしょうが、わたしはこのために来たんでね。皇帝陛下の詰問使なんてのは、ハーフェズの許に来るためのただの名目ですよ。幸い、陛下もこの企てに賛同して下さいましてね」
「父には指導者と戦う力はなかった。だから、従う道を選んだ。だが、わたしにはある。父も、それを認めてくれたってことさ。いいから、さっさと本題に入れ」
「かしこまりました。それでは、これをご覧下さい」
メルキオールは合図をすると、従卒が大きな羊皮紙の束を運んできた。
机の上に広げられた羊皮紙に、思わずノートゥーン伯が息を飲む。
それは、シルカルナフラからイスタフルにかけての地図であった。
地図は、軍事機密そのものだ。
正確な地図など、一般には売られていない。
このレベルの詳細な地図を持っているのは、国家の軍事や情報関係に携わっている上位の人間だけだろう。
シルカルナフラのパシュート人たちでは、これほどの地図は持ってはいまい。
これは、太古から大陸の文明の一翼を担ってきたイスタフルのパールサ人だから有している技術だ。
「此処が、我々のいるバクトラ。北のタメルラン王国から伸びる街道が、こうバクトラを通って南東のカブラへと抜けていきます。シンドーラ王国にも至る重要な交易路ですな。でも、ここを通って北回りで西には向かえません。ご承知の通り、いまタメルランは魔王と戦争中です。下手に進んで、巻き込まれるわけにはいかない。ゆえに、バクトラから西に伸び、シンドー山脈の山麓をぐるりと回っていくこの道を通り、ハライヴァに出る。そこから北西に向かい、サナーバードを落とす。そうすれば、東に大きな兵団はなくなります。安心して、ヤフーディーヤに向かえるというもの。とはいえ、恐らくは、このサナーバードから西に向かう途中で、帝国軍主力と遭遇することになるでしょう。それに勝てば、後は掃討戦に移行するでしょうな」
メルキオールの方針は、常道である。
奇をてらったものではないので隙は少ないが、それだけに読みやすい。
当然、イスタフルも対策を講じやすいはずだ。
大軍を揃えて、待ち構えるだろう。
シルカルナフラの兵だけだと、二万が精々だ。
だが、帝国は十数万の兵を楽に動員できる。
平原で正面から戦えば、勝ち目は薄いと思うのだが……。
「ああ、我々の侵攻と機を合わせて、セイレイスの皇帝が西の国境に十万の兵を動かしてくれる手はずになっています。ヘルヴェティアとヴィッテンベルク帝国が交渉してくれたそうですな。リンドス島のときの身代金以上の金を搾り取られたそうで、全くヘルヴェティアには足を向けて寝られないですねえ」
挟撃か!
単純だが、効果は絶大だ。
腹背に敵を抱えては、イスタフルも両方に大軍を送ることはできない。
それなら、勝機はあるかもしれないな。
「初めの戦いは、ハライヴァ攻略になるでしょう。地元のドラーニ部族が前軍、ギルゼイ部族が中軍、バクトラの教団軍が後軍で街道を進軍します。出立は、一週間後。食糧や武器の手配は、こちらでやってありますので、ご心配なく。いやあ、金の心配なく準備できるっていいですねえ」
「ほどほどにな。ヘルヴェティアは商人の国だ。ただより高いものはないぞ」
「や、これは一本取られましたな。確かに、その通り。ですが、国どうしの借金などというものは、したもの勝ちというのもまた事実」
にやりと、メルキオールが笑う。
ハーフェズが肩をすくめた。
「ヘルヴェティアの方たちは、ハーフェズの直衛です。中軍と後軍の間にお願いします。ハライヴァまでの道は、我らの勢力圏──と言えど、まだ意に従わぬタジーン人などいるかもしれませぬ。ご油断なさらぬように」
「イスタフルの宮廷書記長官がどういう職か、わたしは知っています。卿がその気なら、奇襲など食らうことはありますまい。密偵の長──イスタフルで最も危険な人物」
黙っていたノートゥーン伯が、ぎろりとメルキオールを睨んだ。
これは、伯爵もまだ彼を信用してない雰囲気だね。
「何のことですかな。わたしはただの文官に過ぎませんよ、アルビオンの若き獅子。そう言えば、そこのアラナン・ドゥリスコル殿も、キアラン・ダンバー殿もアルビオンのご出身でしたか。アルビオンは優秀な人物が多くて羨ましいですなあ」
「ノートゥーン伯、メルキオールの言葉は、わたしの言葉ととってもらって構わぬよ」
ハーフェズは、お得意の皮肉っぽい笑みを浮かべている。
面白がっているのは、明白だ。
「殿下、ヤフーディーヤから来たメルキオール卿の言を受け入れるには、条件がございます」
そのとき、黙って座っていた太陽神の神官長バルタザールが口を開いた。
「黒石教の教えを捨て、太陽神の教えを受け入れること。まず、これをやっていただかなければ、話になりませぬ」
「大丈夫だ、バルタザール」
皮肉っぽい笑みを崩さず、ハーフェズは手を振った。
「メルキオールは、昔から黒石教の信者などではない。表向きは、そう装っていたがな。わたしやお前と同じ、太陽神の加護を持っている」
加護持ちか。
黒石教に押され、衰えたとは言えど、かつてはイスタフル周辺を席巻し、大陸諸国に影響を与えた神だ。
まだ使徒を持っていても不思議はない。
「ならば、言うことはございませぬ。メルキオール卿の采配にお任せ致しましょう」
あっさり引き下がったな。
お陰で、不満そうだったパシュート人たちが、口を挟む隙がなくなった。
あれは、わざと言ったんじゃないか?
神官長ともあろう者が、同じ加護持ちを見破れないはずがない。
「決まりじゃな」
腕を組み、目を閉じていた戦士長が静かに言った。
老齢ではあるが、戦士長カスパールは、イスタフル帝国でも一、二を争う武人だ。
その威は、文人肌のメルキオールやバルタザールの比ではない。
「ハライヴァは、客人の手を借りるまでもない。我らだけで、十分陥とせる。それくらいの準備はしてきておろうな、メルキオール」
「お任せあれ、戦士長。わたしは、こう見えてもイスタフルの宮廷書記長官。そういう方策は お手のものですよ」




