第三十一章 ハライヴァの猛虎 -1-
シルカルナフラの風は、十二月でも穏やかだ。
イスタフルの王都ヤフーディーヤから東に千百マイル(約千七百七十キロメートル)。
そこは、イスタフル帝国であって、イスタフル帝国ではなかった。
シルカルナフラ地方、その交易路の要衝バクトラ。
バラヒッサール城は、その北東の山の上にそびえ立っていた。
「廃墟みたいだな」
その城壁から、眼下の街を一望する。
かつて大陸交易の中継地として栄えていたバクトラは、幾度もその支配者を替えていた。
それだけに、そこに住む人々も、極めて雑多な人種である。
ハーフェズと同じパールサ人もいれば、トゥルキュト人や北方の遊牧民もいる。
だが、街は、かつてムグールの二代目魔王の侵攻を受け、一度滅ぼされていた。
それでも、タメルランがシルカルナフラを制圧したときに、復興はされている。
とはいえ、復興は完全にはほど遠い。
タメルランからイスタフルに宗主国が変わったいまとなっても、同じである。
吹きわたる風が砂を運び、古い建物が埋没していく。
「大陸の主要なルートが、北に移ったのです。シルカルナフラは、発展から取り残されておりますな。だからこそ、目が届きにくい。ハーフェズさまが雌伏できたのも、そのお陰でございます」
相変わらず、燕尾服をきっちりと着ているな。
隣に立つダンバーさんを見て、そう思う。
比較的気温の低いこの時期ならわかるが、三十度を超える夏でもキアラン・ダンバーの服装は変わるまい。
まさに、アルビオンの紳士はこうあれと言うのを体現しているような人だ。
「あれじゃあ、金も入っては来ないでしょう。兵の募集に武器や兵糧、金はいくらあっても足りない。根拠地が此処で、イスタフル奪回の兵力は集められるんですか?」
「軍資金に関しては、ヘルヴェティアがその一切を請け負っておりますよ」
流石、聖修道会と冒険者ギルドという金づるを抱えるヘルヴェティアは違うな。
ただダンバーさんを派遣しているだけではなく、そこまで本腰を入れて支援しているのか。
それだけ、ハーフェズに期待しているのだろう。
「──どうやら、ギルゼイ部族の兵が戻られたようでございますね」
東の街道から、砂煙とともに騎馬の軍団が駆けてくる。
シルカルナフラ東部の平定に出かけていたハーフェズの兵だ。
ハーフェズの軍団は、主に三つの兵団から成る。
プシュカラ、カブラ、タキシラを中心としたシルカルナフラ東部に在住するギルゼイ部族、ハライヴァ、アルガンダルを中心としたシルカルナフラ西部、南部に割拠するドラーニ部族、そして、バクトラの太陽神教団の私兵だ。
シルカルナフラの各都市には、当然イスタフル帝国の任命した黒石教のパールサ人やトゥルキュト人が派遣されていたが、ハーフェズはこれを一掃し、シルカルナフラの完全な掌握に撃って出た。
現地在住のギルゼイ部族、ドラーニ部族らパシュート人は、北から来たクジュラ人の末裔と、パールサ系の現地人の混血である。
平野部にはトゥルキュト人やイシュクザーヤの末裔であるタジーン人がおり、山岳に追いやられたパシュート人は剽悍な遊牧民の気質を失っていなかった。
ハーフェズはこのパシュート人と手を組み、一気にシルカルナフラ諸都市を制圧した。
北部は元々、太陽神教団が押さえている。
南部のアルガンダル周辺は、ドラーニ部族が陥落させた。
そして、東部のプシュカラ攻略に出ていたギルゼイ部族の兵が、任務を完了させて戻ってきたのだ。
「ナーディル・ギルゼイでございますな」
街道を駆けてきた兵は、バクトラの郊外で野営の準備に取りかかっていたが、十数騎の騎兵だけ、このバラヒッサール城に向かってきていた。
黒地に紅炎の旗。
ギルゼイ部族の族長であるナーディル・ギルゼイと、腹心の氏族長たちであろう。
ナーディル・ギルゼイはシルカルナフラでも武勇の誉れ高い英雄であり、ハーフェズにとっては最も頼れる将軍であった。
千数百年前にシルカルナフラを征服したこともあるクジュラ人。
その諸侯の末裔であるナーディル・ギルゼイは、山岳から平野に進出するこの好機に、覇気を全身から立ち上らせている。
クジュラ人は、元来シンドーラ王国のモークシャ教に帰依していたが、近年は黒石教が浸透している。
だが、それでもナーディル・ギルゼイは、太陽神教団に賭けた。
今のままでは、シルカルナフラで最も多いパシュート人が、偏狭な地に追いやられている現状を変革することは不可能だと知っていたからである。
「後顧の憂いはなくなった。いよいよ西進ですね」
「まずは、ハライヴァでございますね」
ナーディル・ギルゼイが来たということは、いよいよ西へと進むことになる。
まずは、旭日地方の要となるハライヴァ。
ホル・アヤン地方とは、イスタフルから見て、太陽の昇る方角、つまり東と言う意味になる。
古来この地方の中心都市は四つあり、メルヴ、ハライヴァ、バクトラ、ニシャプールがそれに当たる。
バクトラを含むシルカルナフラ地方も、広義ではこのホル・アヤンに含まれる。
だが、バクトラがかつてムグールの魔王に滅ぼされたことがあるように、北方のタメルランに近いメルヴもまた魔王によって完膚なきまでに叩きのめされ、滅亡している。
替わってイスタフルからタメルランへの玄関口として栄えたのがニシャプール東にあるサナーバードで、いまはメルヴとニシャプールを合わせたほどの大都市となっている。
バクトラからヤフーディーヤに進軍するルートのひとつがこのサナーバードを通る東西交易の大街道であるが、バクトラからそこに出るためには、一度北に行き、タメルランの勢力圏を通らねばならない。
タメルランは、いま三人目の魔王の尖兵シュリの猛攻を受けており、とても安全に進軍できるルートではなかった。
もうひとつの進軍路が、山岳の道を通ってハライヴァへと出るルートである。
大軍が進むに適しているとは言えないが、パシュート人にとっては慣れた道であるし、問題はない。
だが、このハライヴァも、サナーバードほどではないが東西南北様々な方面へと分岐する街道の要衝。
ここを治める太守は軍人としても優秀である。
猛虎と呼ばれるイスタフルの驍将、ペーローズ・カーゼンプール。
ハーフェズにとって、第一の関門が此処であった。
「ドゥリスコル教官、軍議の時間が迫っております。皇子殿下が探しておられました」
そこに現れたのは、イザベル・ギーガーだった。
生来の真面目な軍人気質のせいか、ノートゥーン伯によく使われている気がする。
確かにイザベルは新人ではあるが、彼女より新しく騎馬隊に入ったビアンカ・デ・ラ・クエスタはこういう役目を言いつけられたことはない。
なんというか、ノートゥーン伯もビアンカを苦手としている感じがする。
も、というのは、もちろんぼくも苦手としているからだ。
すぐ人のこと殴るし。
「参りましょうか、アラナンさま」
「ええ」
ダンバーさんに促され、踵を返す。
ヘルヴェティアからの軍議の参加者は、ダンバーさん、ノートゥーン伯、ティナリウェン先輩、そしてぼくだ。
騎馬隊の指揮権はノートゥーン伯にあるが、学生ではないぼくは、立場的にはノートゥーン伯より上位にある。
その重圧から逃れにこうして気分転換に出ていたのだが──。
どうやら、余暇の時間は終わりのようであった。




