第三十章 卒業試験 -10-
魔王。
何度となく、その単語は聞いたことはあった。
かつて、この西方諸国は、二度魔王の侵攻に曝されている。
一度目は戦いの神アッタルを奉じるノヨンオールの魔王。
二度目は、死の女王シャヘルを戴くムグールの魔王だ。
ともに、大陸東部の北に広がる大草原に覇を唱える魔族から生まれた魔王だ。
三度目も何れ来るとは言われていたけれど──。
すでに誕生していたとは思わなかった。
「ムグールの後を継ぐ黄金の天幕は滅ぼされたと聞いたけれど、次の魔王はその滅ぼした国の王かい?」
「は、モスコフスカヤ公など俗物に過ぎん。魔王は、東方の島国から、やって来る。すでに、大陸東方の大国、タムガージュは征服された。いまは、草原の国アヴァルガ、タムガージュ南方の大国シーニー、ムグールの血を引く覇者の国タメルランが同時に侵攻されている。じきに、イスタフルも巻き込まれるだろう。すでに、先遣隊が来ているのだ。そして、残念なことに、指導者には戦う気がない」
思ったより、危機的な状況だった。
世界は、そこまで動いていたのか。
「だが、わたしは戦うぞ。イスタフルは、わたしの国だ。わたしがイスタフルの皇帝となって、魔王の侵攻を止める。だが、まずは、国を取り戻さねばならん」
「ハーフェズがいれば、大抵の戦いには勝利できそうだけれど、そんなに相手は強いのかい?」
「ああ。タメルランを侵攻している魔王の先鋒シュリ、その右腕マタザだ。無双の槍の名手でな。引き連れている部下も強い。イスタフルの宮廷は、こいつに完全に屈服している。もたもたしていると、セイレイスも飲み込まれかねん」
槍使いか。
魔族の猛者と言えば、黄金の天幕きっての猛将だったデヴレト・ギレイが思い浮かぶが、彼と比べるとどうなんだろう。
「フェストに出ていた武人と比べて、どれくらい違うんだい? ハーフェズならあの大会出ていたし、わかるだろう」
「そうだな。マタザの連れている二人の武人、これはアルビオンのルウェリン・グリフィズに伍するだろう。そして、マタザ自身は、聖騎士やダンバーでも遅れを取りかねない。黒騎士級だと思っていい。後の従卒は、わたしでも対処できる程度だが、それでもメディオラ公程度の力量はある」
魔王の部下の部下が、西方最高の騎士と同格の強さだって?
魔族の強さは前から聞いていたが、これは桁違いだ。
黄金の天幕の連中より、ずっと厄介なやつらだ。
しかし、連中、何処から来たって?
「東方の島国──そういや、サツキの故郷ってのもそっちの方じゃなかったっけ」
「ああ。平和の国、だった。少し前まではな」
珍しく、ハーフェズがため息を吐く。
「聖鴉を失った平和の国は、戦乱に突入したらしい。そこで地方から台頭したテンマ・ゼクスが、圧倒的な武力で平和の国をまとめ上げた。いまや、あの国は魔王テンマの治める修羅の国だ。サツキを派遣した王も、殺されたらしいな」
「聖鴉って、黒騎士が持っているあの刀か?」
「ああ。連中にとっては、かなり重要なものらしいな。サツキ以外にも、派遣された者がいるようだ。サツキは元の平和の国の王にだが、魔王の手の者もいる。マタザも探していたぞ」
すでに、魔王の手の者が世界中に派遣されているのか。
今まで見かけなかっただけで、今後は姿を現してくるのだろうか。
「で、どうだ。この件は、大魔導師や飛竜にも、話は通してある。二人とも、アラナンの意志に任せるそうだ。魔王の侵攻については、イスタフルだけの問題じゃない。わたしは、以前から学院とは協力関係にあるからね」
確かに、そうだ。
ヘルヴェティアでも最高戦力の一人、黄金級のキアラン・ダンバーをずっと張り付かせている。
学院のハーフェズに対する力の入れようは、異常なほどだ。
まあ、もっとも、学院がどうであろうと、関係ない。
だって、ハーフェズ・テペ・ヒッサールは、友人だからな。
「世界の栄華の半分を集めたという伝説の都ヤフーディーヤを見て、何処までも高く広がる空の下を一緒に駆けるんだろ。覚えているよ、ハーフェズ。ぼくたちは、短い間だったけれど、確かに学院で切磋琢磨し合った友人だった。そのとき交わした約束は、忘れないさ」
右拳をハーフェズに向けて突き出す。
珍しく、皮肉を含まぬ笑みを浮かべると、ハーフェズはぼくの拳に合わせて自分の拳を突き出した。
「ああ──ああ! 案内するとも、イスタフルを──わたしの国を! 世界の文明はイスタフルより出で、イスタフルに帰る。素晴らしき叡智の数々──知っているかね、アラナン、二千年前、まだこのあたりのセルトの諸部族が素朴な生活をしていた頃、すでにイスタフルには世界に冠たる大帝国があったということを!」
「悪かったな、素朴な生活で」
くそ、こいつはこういうやつだったよ。
感動的な場面も台無しだ。
だが、まあハーフェズらしい。
ぼくは、腕を伸ばしてハーフェズの頭を掴むと、小脇に抱え込む。
「セルトの部族社会は、文明よりも自然との調和を大切にしたんだよ。お前も、ぼくとの調和を大切にしろよな」
「いたっ、何をする、アラナン。小突くな、おい」
気付くと、あれだけいた冒険者たちも、もう地下から引き揚げていた。
飛竜もいなくなっている。
この場にいるのは、ハーフェズとシピだけだった。
って、この黒猫いたのか!
「あら、いいのよ、アラナン。気にせずに続けて。いいわよねえ、若い男の子の友情って。何か、見ているときゅーんって来ない?」
「いや、ぼくはそういうのないんで」
全く、何処にでも現れる猫だ。
あんた、フラテルニア支部長と違うんかい。
ベールで油売っていていいのか。
「イスタフルに行くことに決めたアラナンに、一応教えとこうと思ってわざわざ来たのよ。そんな顔されるとお姉さん悲しいわあ」
「どうせ影渡りで一瞬じゃないですか。で、何を言いに来たんです?」
「学長はね、アラナンがイスタフルに行くことに決めたときは、イ・ラプセルの騎馬隊ごと派遣することに決めていたそうよ。一人じゃないから、安心なさいね──でも、マリーは守ってあげなきゃ駄目よ?」
「ちょっと!」
魔王の部下が跋扈するような危険なところに、学院の生徒を派遣するなんて!
いや、ノートゥーン伯やティナリウェン先輩、トリアー先輩なんかはわかるが……。
まだ未熟な人だってたくさんいるのに。
もう、カサンドラ・ペルサキス先輩のときのような思いは、ごめんだった。
だが、狼狽するぼくに、驚くほど静かな声でシピは言った。
「アラナン」
その声は、穏やかではあったが、反論を許さぬほどの迫力を秘めていた。
「このままだと、みんな死ぬわ、アラナン。強くならねば──少なくとも、魔王の兵よりも強くならねばね。時間もない。いまは、こうする他に手段はないのよ」
「しかし──せめて、クリングヴァル先生たちは来るんですよね?」
「今回は、教員の派遣はないわ。初陣はもう、済ませたでしょう?」
「しかし、学生だけなんて──」
抗議するぼくの唇に、シピは右手の人差し指を当てた。
「あら、学生だけではないわ、アラナン。貴方がいるでしょう?」
口をぱくぱくと開けるぼくに、シピは鮮やかに片目をつぶった。




