第二十九章 アローンの杖 -8-
違和感が去ると、視界は元に戻っていた。
学長が、位相のずれを直したのだ。
大地を踏みしめる感触が戻り、それだけで力が戻ってくる気がする。
アセナの拳は、大地を大きな力としているのだ。
周囲を見回してみると、凄惨な光景となっていた。
騎士の包囲を受けながらも、ストリンドベリ先生とエスカモトゥール先生は健在だった。
だが、二人とも大小様々な傷を負っており、すでに限界を迎えつつあるのは明白だった。
特にエスカモトゥール先生は体力も魔力も尽きている様子で、ストリンドベリ先生が彼女をかばって一方的に攻め込まれていた。
クリングヴァル先生は、イシュバラを追い詰めていた。
もとより技倆では互角であったが、基礎魔力の扱いにおいてはクリングヴァル先生に分があった。
神力の扱い方も、結局は基礎魔力の練度が高い方が巧みになる。
イシュバラは攻め手を失っており、クリングヴァル先生の猛攻にさらされている。
業火と旋風巻き起こるその苛烈な攻撃に近付ける者はなく、二人は大軍の中にぽっかり空いた空間で戦っていた。
クリングヴァル先生の炎を受けてか、イシュバラはあちこち服が焦げている。
そして、左の脇腹に大きく抉られた傷があった。
雷光を避けきれなかったのだろう。
そして──。
飛竜と二人目のイフターバ・アティードとの戦いも、佳境となっていた。
神力が戻るまでは守勢に回っていた飛竜が、反転攻勢に出ている。
あれは──。
竜爪破邪。
飛竜の名を代表する絶技だ。
左右の拳と肘による連打。
あの連打の炎に巻き込まれたら、灼き尽くされて骨も残らない。
「賢しいわ、アセナ・イリグ!」
だが、イフターバ・アティードは槍の柄の中央を持ち、回転させながらその連打を捌いていく。
飛竜の絶技を受けても崩れない防壁。
神殺しでなくば、槍ごと砕け散っていただろうに。
だが、まずいな。
いかに飛竜といえど、あの連打は永遠に続かない。
耐えきられたら、その連打の切れ目に一瞬の隙ができる。
イフターバ・アティードが、その隙を見逃すはずがない。
一秒間に何発撃っているかもわからない高速の連打。
それが、果たして何処までもつのか。
ああ、わかっている。
二人の動きについていけて、神殺しと撃ち合っても平気な神器を持っているのは、ぼくだけだ。
とはいえ、いまの状態では、一対一で対峙すれば、確実に殺される。
飛竜が健在なうちに、援護するしかない。
行かなければならないタイミングも、わかっていた。
竜爪破邪の連打が途切れ、イフターバ・アティードが反撃に移るとき。
その一瞬だけが、ぼくが攻撃を仕掛けても命を落とさずに済むタイミングだ。
神経を研ぎ澄まして、その瞬間を測る。
いかに飛竜といえど、無呼吸での連打には限界がある。
並みの人間なら、一分間に数十発も撃つことはできまい。
武術家として頂点に立つ飛竜でも、一秒間に数えきれないほどの連打を続けられるのは、持って三分。
一撃でも致命傷になる飛竜の打撃を、そこまで受けきる人間など見たことはない。
だが、飛竜の破壊力を以てしても、神器神殺しの防御を突破できなかった。
アローンの杖もそうだが、イフターバ・アティードの持つ神器は、通常のものより質が高い。
もし、あれがなければ、決着はとうに付いていただろう。
アセナ・イリグが、故郷を逐われることもなかったに違いない。
はがねのような飛竜の表情が歪む。
額に、汗が浮き出てきている。
竜爪破邪は、一撃一撃が必殺の連打。
おのれの魂が込められた無数の打撃をこれだけ凌がれては、さしもの飛竜といえども焦りが出てくるのか。
──決着は、近い。
飛竜の竜爪破邪は、ぼくと違って連打のパターンは一定ではない。
竜爪掌と尖火の撃ち方も、様々なバリエーションがある。
あの変則的な撃ち方に付いていけるイフターバ・アティードの実力もまた、恐るべきものがある。
流石に、千年以上も齢を重ねていない。
大陸西部の影に、長く暗躍してきた貫目だろうか。
ぼくは静かにときを待ち、フラガラッハを握る右手に僅かに力を籠めた。
見逃してはいけない一瞬が、来る。
右下から抉り上げるような右尖火。
連続して叩き下ろすような右尖火。
踏み込んでの左竜爪掌。
閃光のような竜爪掌三連打の後、更に左の尖火。
飛竜の技術を見るだけで、ぼくとの遠い差を感じる。
ぼくの真似事のような竜爪破邪とは違う。
あれこそが、真の飛竜の絶技。
だが、それでも、限界は、来た。
渾身の、右の竜爪掌。
乗った神力が、神殺しと衝突した瞬間に眩しく弾ける。
軽く人体を破裂させられる一撃も、だが、神器を貫通することができない。
その一撃が、限界だった。
流石の飛竜も、呼吸が続かなくなったのだ。
常人なら大きな隙になるであろう吸気。
飛竜のそれは、限界まで振り絞ったにもかかわらず、隙などあるかというように短い。
刹那。
イフターバ・アティードが、飛竜に突き込もうとして──。
ぼくの斬り込みに対応して、神殺しを掲げた。
太陽神の翼による遠間からの奇襲も、イフターバ・アティードには通じない。
それは、やる前からわかっていた。
だが、この一瞬なら、イフターバ・アティードは防御する。
普通に斬りかかっていれば、交差法で逆撃を喰らっていただろう。
「ぼくらの、勝ちだよ。イフターバ・アティード」
掲げた神殺しの柄が、真っ二つに斬り裂かれていた。
驚愕に目を見開く皇帝。
神剣解放による一撃は、対神器に特効を持つ。
無敵を誇る強力な神器こそ、フラガラッハの獲物。
「アラナン・ドゥリスコルがあ! あのときに、殺していれば──」
「死すときに悔やむような生き方をせんことだ、イフターバ・アティード」
飛竜の右の竜爪掌。
受けたイフターバ・アティードの左手が、弾ける。
再び始まった竜爪破邪の猛攻が終わったとき、かつてイフターバ・アティードだったものは、すでにその原形を留めていなかった。




