第二十九章 アローンの杖 -5-
崩れ行くシュヴァルツェンベルク伯の向こう側で、エーストライヒ公が嗤っていた。
彼にとって、伯爵はかなり重要な手駒だったはずだ。
その割には、損失に動揺する気配も見せない。
「この段階にまで至ってくるとは驚きだ。アラナン・ドゥリスコル、君一人で今まで失った人材を超える価値がある」
「褒められても何も出ないよ、イフターバ・アティード」
「不敬はよくないな、セルトの祭司長。余のことは陛下と呼びたまえ」
く、言葉に神力を乗せてきている。
これだけで、常人ならひれ伏しているだろう。
ぼくでも、加護がないいまはきつい。
「セルトの祭司長が、よその神の権威に屈するわけがなかろうて。のう、アラナン」
いつの間にか、大魔導師がぼくの隣にいた。
彼がぼくの肩に手を置くと、公爵からの圧力が一気に薄らぐ。
流石はティアナン・オニール。
神力を封じられていてもその力に衰えは見られない。
「小手調べは上手くかわしたようだがな、ティアナン・オニール。余の前で貴様の知識が通用すると思うてか?」
「伊達に大魔導師などと名乗ってはおらぬよ、エシュア・ルーベン。どちらの知識の神が優れているか、決着を付ける頃合いじゃろうて」
学長の宣言に、公爵の口角が上がる。
真紅の口腔が、ぬちゃりと音を立てる。
「面白い、ティアナン・オニール。余から、その若僧を護れるか?」
公爵が手にした杖を大地に突くと、そこから地響きとともに幾つもの地割れが走ってきた。
激しい大地の揺れに、立っているのも難しい。
まあ、鍛えた人間であれば、これくらいでバランスは崩さないが。
「甘いわ」
学長も杖で地面を突く。
すると、激しい地割れがぴたりと止まった。
まさか、相手の魔術に干渉して止めるとは。
ぼくにはできない芸当だ。
「ほう、この程度の魔術であれば、手の内というやつか。そうよな、アルトゥンでもできる芸当だ。だが、付いてこれるか、ティアナン・オニール!」
公爵が再び杖を振るう。
今度は何も起こらない──。
いや、何だ、これは!
いきなり得体の知れない力が上からのし掛かり、ぼくを潰そうとしてくる。
立っていられなくなり、膝をつかざるを得ない。
学長は──。
学長の杖から、強烈な魔力が噴き上がっていた。
そのせいか、大魔導師はまだ二本の足で立っている。
「大地がものを引き付ける力を、増幅しておるだけじゃ、アラナン。大地の魔術が使える者ならば、対抗できる」
簡単に言ってくれるが、ぼくはそんな魔術を使ったことがない。
それに、この強大な大地への支配力──これもアローンの杖の力だろうか?
「やせ我慢はよくないぞ、アラナン・ドゥリスコル。それ、大分皇帝への敬意が出てきたではないか」
上から押さえつけられるような力で、ついに両膝をつく。
障壁が悲鳴をあげているのがわかる。
このまま障壁が砕ければ、ぼくの体も潰されそうだ。
くそ、周囲の地面の魔力は公爵に制されている。
唯一、学長の周辺だけが逃れているようだ。
大地に手をつき、地脈の操作を行おうとするが、難しい。
がっちりイフターバ・アティードに押さえられている。
「魔術の研鑽をおろそかにしておるようじゃのう、アラナン」
大魔導師が杖をつくと、押し潰そうとする力が一気に消えた。
学長が、イフターバ・アティードから地脈の支配を奪い取ったのだ。
流石は大魔導師。
何気なく行う魔術が非常に高度で、付いていけない。
「地属性の魔術を使える者でも、そう簡単には無力化できぬはずだがね。お見事と言っておこうか」
「お褒めに与るほどでもないわ、エシュア・ルーベン。そろそろ準備も整ったことじゃし、今度はこちらから仕掛けさせてもらおうかの」
今まで受け身に回っていた学長だったが、それは大規模な術式を準備していたためだったようだ。
大魔導師の握る杖が輝くと同時に、軽い浮遊感が体を襲う。
何が起きたのかは、よくわからない。
ぱっと見では、特に何も起きてないように見えるが──。
「──ほう、珍しい手妻を使いおるな。位相をずらしたか」
「空間魔法に関しては、これでも一家言はあるのじゃよ。これで貴様を、逃がさずに戦えるのう」
二人はわかっているみたいだ。
空間魔法というからには、空間に関する事象なんだろうけれど……。
正直、ぼくは空間魔法に関しては素人なんだけれどな。
「位相をずらした、つまり、今までわしらがいた空間と重なりあうように近い別の空間に移動したのじゃよ。周りの風景は見えてはおるが干渉はできぬ。まあ、陽炎のようなものだと思うのじゃな」
干渉できない?
そういや、なんか体がふわふわしている感覚がある。
太陽神の翼で空を飛んでいるときの感覚に近い。
足下の草をむしろうとしたが、手が草をすり抜けてしまった。
それでも、地面だけは踏みしめている感覚がある。
あまり強固な感触ではなく、なんか頼りない感じだけれど。
「この大地は概念の産物でしかないからのう。魔力もないし、すかすかに感じても不思議はなかろうて。使える魔術は、風系統のみじゃと心得よ」
なるほど……って魔術も制限されるのか。
魔法は使えるだろうけれど、魔力の消費が心配だな。
でも、こうして制限を掛けたのは、イフターバ・アティードを追い詰めるための方策なのであろう。
ぼくにはわからないが、学長には考えがあるはずだ。
「──ふむ、向こうとの繋がりを切られたか。だが、その程度のことで神殺しの脅威を減じることはできんぞ。アセナ・イリグに勝ちの目はない」
「そうかのう。わしはイリグの勝利をいささかも疑っておらんよ。イリグも、わしが勝つと思っておるじゃろう。わしらは、勝つために此処に来たのじゃからな」
「その見通しは甘かったな。アローンの杖があれば、時間は掛かるが元の位相に戻すことは可能だろう。貴様らを殺して、ゆっくり戻ればいい。その頃には、アセナ・イリグもスヴェン・クリングヴァルも屍に変わっているさ。一番の脅威を封じているのは、こっちも同じことだからな」
アローンの杖を振りかざすと、イフターバ・アティードは精神を集中するように目を細めた。
「──確かに、地脈の力は感じられぬな。大地系統の魔術を封じるつもりだったか」
「大地系統の魔術がおぬしの得意であるし、アラナンが対処できていなさそうなのでのう」
「ふん、足手まといをわざわざ巻き込むとは、物好きなものよ」
学長が、わざわざぼくを巻き込んだ。
確かに、イフターバ・アティードの言うとおりだ。
魔術や魔法の技術戦では、ぼくはこの二人に遠く及ばない。
なのに、大魔導師はぼくを必要とした。
それはもちろん、学長がぼくに命じた指令の遂行のためだろう。
アローンの杖の破壊。
あれほどの格の神器を破壊できるとしたら、ぼくの持つフラガラッハだけだ。
だが──。
その遂行には、ひとつ難点がある。
フラガラッハは、神力を通さなければ鞘から抜けない。
ぼくは、どうやって神剣を抜いたらいいんだ?




