第二十九章 アローンの杖 -3-
飛竜とエーストライヒ公は、見合ったまま動かなくなっていた。
あの神殺しは、イフターバ・アティードにとっても切り札なはずだ。
それが飛竜には通じなかった。
澄ました顔をしているが、衝撃は大きいはずだ。
一方、飛竜としても、弾くならともかく刺されては呪いに抵抗できまい。
イフターバ・アティードの槍の腕は確かであり、迂闊に間合いに踏み込めない。
自然、間合いは固着となる。
飛竜は静、クリングヴァル先生は動──。
奇しくも戦況も二人の性格に酷似していた。
必然、アローンの杖を持つもう一人のエーストライヒ公との間に、障害はない。
いや、騎士が数十人立ち塞がっているか。
神力が使えないとちちょっと面倒だが、あれくらいなら──。
聖爆炎の連発でも突破できそうだ。
「教え子がこっちに来ようとしているぞ、ティアナン・オニール。よいのか、そこからでは守りも追い付くまいに」
イフターバ・アティードが、大魔導師を誘う。
当然か。
彼奴が敵と思っているのは、大魔導師と飛竜だけだろう。
ぼくなど、いつでも殺せる雑魚という認識に違いない。
「ルーの祭司長を侮るでないわ。アラナンは、わしの助けなぞなくても十分に戦えるわい」
「そうかな? 所詮ひよっ子であろう」
アローンの杖を地面に向けると、イフターバ・アティードは短くケレブと呟いた。
すると、杖の先の地面に、土煙が巻き起こる。
その土煙には、既視感があった。
「ルンデンヴィックの黒犬か」
フラテルニアで、イフターバ・アティードが使役していた透明な魔獣。
厄介な相手だったが、いまのぼくの敵ではない。
あの程度の魔獣よりも、アルトゥンが解き放った円眼の巨人の方がよほど怖い。
そのぼくの今更感を感じ取ったか、アローンの杖を構えたままイフターバ・アティードが嗤う。
「余裕だな。だが、これならどうだ?」
土煙がひとつからふたつ、ふたつから四つ、四つから八つとみるみる増えていく。
瞬く間に、イフターバ・アティードの周囲が土煙で埋め尽くされた。
あの数を召喚できるというのは、確かに凄い。
軍隊相手でも一人で戦えるだろう。
公の前に展開していた騎士たちが、左右に分かれて道を空ける。
ぼくと、イフターバ・アティードの前には土煙以外には障害物はないように見える。
まあ、凶悪な魔獣が潜んでいるのは明白なんだけれどさ。
でも、それほど慌てる事態ではない。
顔を上げ、背を伸ばして前進を開始する。
味方で身動きが取れるのはぼくだけだ。
奇しくも、大魔導師が言っていた通りの流れになっている。
ならば、アローンの杖を何とかするのは、ぼくしかいない。
土煙が突っ込んでくる。
センガンに比べれば、大した速度ではない。
ただ、透明で見えないだけだ。
それも──。
見えない牙をかわし、その顎を掌打で突き上げる。
魔力が徹り、魔犬は一撃で吹き飛ぶ。
姿が見えないと言っても、魔力は感じられるのだ。
この魔獣の魔力隠蔽も障壁の厚みも、ともにセンガンには及ばない。
次々と襲い来る爪牙を回避し、一撃で致命打を叩き込む。
ルンデンヴィックの黒犬では、いまのぼくは止められない。
かつてはハーフェズと二人がかりで手こずったこともあったが、あのときのぼくと比べられても困る。
「なるほど」
イフターバ・アティードの鋭い眼差しがぼくを射抜いた。
「加護の力だけの能無しだと思いきや、それなりに牙を身に付けたようだな。フェストでの活躍も、神の力によるものではなかったということか」
「悪いけれど、決勝までは、大魔導師の指示で神力封印してたし。あんたの木偶との戦いも、ぼくだけの力さ」
「ふふ、ギデオン・コーヘンか。彼奴はなかなか使い勝手がよかった。簡単には死なぬしな。だが、あれよりも、こやつの方が使い勝手はよい」
突然、イフターバ・アティードの前に一人の騎士が現れる。
見覚えのある甲冑。
あれは、シュヴェルツェンベルク伯か。
「悪いが、シュヴェルツェンベルク伯。貴方ではぼくは止められないよ。貴方はセンガンよりも弱いだろう」
「神聖術が使えない状況なら、そうでもありませんよ」
シュヴェルツェンベルク伯が右手を大地に付けると、地脈から膨大な魔力が伯爵に流れ込んでいく。
伯爵のまとう魔力が膨れ上がり、身体強化が何段階か跳ね上がった。
「そうか。あれだけの霧、自分の魔力だけで出せるはずがない。シュヴェルツェンベルク伯も魔術師だったのか」
「わたしも加護を使えない状況ですが、貴方の方が失った戦力は大きい。光翼の加護なしで、いまのわたしと渡り合えますか?」
伯爵の手には、いつもの銃はない。
代わりに、セイレイス帝国で使われるような曲刀を持っていた。
ボーメン王国の出身の割には、戦い方にチェス人らしさがないな。
警戒はした方がいいだろう。
シュヴェルツェンベルク伯はフェストのシード選手を破るほどの力はないと思っていたが、フェストでは本気を出していなかったようだ。
まだ、思わぬ手を隠しているかもしれない。
「スヴェン・クリングヴァルでなくば、わたしと互角に戦うのは無理ですよ」
地を蹴って、伯爵が接近してくる。
甲冑を着ているとは思えぬ速さ。
ルンデンヴィックの黒犬より速い。
唸りを上げて振り下ろされる曲刀。
速度や魔力に加え、重さも加わって威力は桁違いに上がっている。
障壁で受け止めても、衝撃が響きそうだ。
左に回りながら、斬撃を回避する。
大地に叩き付けられる刃。
衝撃で、地面が揺れる。
伯爵が、こんなにパワー型の攻撃をしてくるとは。
遠距離戦が得意なタイプだと思っていたが。
しかし、粗い攻撃には、隙が大きい。
甲冑に手を当てると、体内で回転させた魔力を渦と化して押し込む。
だが、障壁が予想以上に厚く、伯爵にダメージがない。
兜の目庇の下から、ぎろりと冷酷な視線がぼくを捉えた。
その瞳が、紅くなっている。
あれ、伯爵の瞳ってこんな色だったっけ。
足を止めたぼくに、後ろから生き残りの魔犬が飛び掛かってくる。
目を伯爵に向けたままその顎を掌底で跳ね上げると、一撃で障壁を破壊し、魔犬が絶命する。
ルンデンヴィックの黒犬と言えど、所詮は中位の魔獣に過ぎない。
それよりいまは、伯爵の方が危険だ。
「わたしにばかり注意を向けるのは、得策ではありませんよ」
面頬で顔は見えないが、伯爵が笑った気がした。
その瞬間、ぞくりと背中を嫌な予感が駆け抜け、咄嗟に横に転がって避ける。
今までぼくがいたところに、空中の魔犬の死骸から、何か赤黒い槍のようなものが走っていた。
「血の……槍?」
「血を操る生物のことを聞いたことはありますか?」
血の色のような双眸が、ぼくを睨み付ける。
霧を操り、血を操る生物って──。
そりゃ、聞いたことくらいはある。
だが、まさか伯爵がそれだったとは。
「吸血鬼……」




