第二章 氷雪の魔狼 -13-
「要するに、主様たちは、わっちに他所の女のお守りをしなんせと申しんすか」
とりあえず、冷める前に食いなんしとファリニシュが湯気の立った器を寄越す。
中には熱々の蕎麦の実の粥が入っており、ファリニシュは狼のくせに料理ができるようだ。
体に障らぬよう、ゆっくりと粥を口に運ぶ。
牛乳と一緒に煮込まれた粥は、優しい味がした。
恐ろしい魔狼には似つかわしくない。
「マリーは、マルグリット・クレールはセルトの正統な末裔なんだよ。聖なる木立群の封印を解いて中に入れてしまうくらいにね」
「聖地に立ち入れるんは、王の血族以外になさんすえ。その娘はセルトの王となりんしたか」
「わからない。大魔導師──祭司長のオニール学長ならわかるかもしれないけれど」
「ティアナン・オニール──糸を引きしは大いなる知恵神の祭司長でござんしたか。まだくたばってなさんすねえ」
ファリニシュは、大魔導師と顔見知りのようだ。
お互いセルトの民に縁の深い間柄なれば、不思議はないのであろう。
やや不服そうではあるが、マリーの護衛は引き受けてくれると言う。
「わっちのことはイリヤと呼びなんし。ファリニシュの名をルウム教会に知られると、けちな男がやって来なんす」
「イリヤ・マカロワだっけ。ペレヤスラヴリ公国にありそうな名前だけれど」
ペレヤスラヴリ公国は、ヴィッテンベルク帝国の北東の方角にある大国だ。
かつてサルマティア人が遊牧していた土地に、西から移動して来たスカンザ民族のキーウ人が打ち立てた国である。
キーウ人は、ストリングベリ先生のスヴェーア人やアルビオン王国のアングル人などと親戚のような人たちだ。
暗黒の島を故郷とするスカンザ民族。
元々はセルト民族と比べてもかなりの蛮族である。
ヴィッテンベルク帝国やアルマニャック王国も、この民族の流れを組む者たちが作っているのだ。
かつては大陸を支配したルウム人と敵対していたスカンザ諸部族であるが、支配域を広げるにつれその権威をルウム教会に頼るようになり、急速にルウム化が進んだ。
一方、ルウム化の遅れた北方の新興国家を作ったキーウ人は、イシュクザーヤ人やサルマティア人などの遊牧民と混血し、独自の民族を作り上げつつあった。
人間の姿になるときに、ペレヤスラヴリ公国のキーウ人をファリニシュが選んだのは、そのルウム化が遅れていると言う状況が大きかった。
他のスカンザ諸部族の国家は何処もかなりルウム教会に侵食され、ファリニシュには住みづらい土地になっていたのである。
驚いたことにファリニシュは、イリヤ・マカロワ名義の旅券すら持っていた。
きちんとペレヤスラヴリ公国に国民として登録されているのである。
後はオニール学長に入学許可だけ貰えば、イリヤ・マカロワのマリーの護衛任務に障害はない。
それなら、無事にぼくの任務は完了と言うことでいいのだろうか。
「その様では胸は張れんよなあ、アラナン」
くっくっっくっと口許に右拳を当ててレオンさんが笑った。
確かに、ぼくの寝込んだ恰好では威張れるものではない。
ちょっと動かしただけで痛みが走るのは、完全に勇敢な戦士の後遺症のようだ。
今回は重度の筋肉痛で済んだみたいだけれど、最悪腱や筋が切れる可能性もあると言う。
これを予防するのは簡単で、身体強化を鍛錬しろと、レオンさんは言った。
「要するに、お前の魔術は集めた魔力を纏って強引に体を引っ張るものだろう。それに対して、魔法の身体強化は魔力を経絡に従って循環させる。循環させている間は、身体が魔力によって底上げされる。つまり、身体強化を使えば、あの魔術を使っても体がぶっ壊れないと言うことだ」
なるほど。
しかも、その訓練は神の眼の発動にも効果がありそうだな。
学長が学院にいる間は魔術を禁止したのはこのためかもしれない。
そして、この旅でそれに気付かせるつもりだったんだろうな。
「学長も人が悪い……ぼくだけ特別講義ですか。わざわざレオンさんにもご足労願ってまで」
「おれはフリースラントのフリジア人だからな。これでもスカンザ民族の一人だ。だから、セルトの事情はよくわからない。だがな、アラナン。お前さんが太陽神の祭司長ってやつの資格を持つなら、そりゃ大魔導師も普通の育成手段なんかじゃ間に合わないんだろうよ」
レオンさんはそこで煙草を取り出したが、火を付ける前に素早くファリニシュが火口を抱え込んでいた。
ぽりぽりと頭を掻いたレオンさんは、暫く煙草を指に摘んだまま悩んでいたが、やがて諦めて箱にしまった。
どうやら、鼻のいいファリニシュは煙草の煙の匂いが嫌いらしい。
「そんな煙なぞ止めなんし」
「……女にはわからないんだよ、こいつの魅力はな」
二人が軽口を叩いている間に蕎麦の実の粥を食べ終わる。
こいつはペレヤスラヴリ公国の料理らしく、あっちではファリニシュはよく食べたらしい。
結構人間の姿で彷徨いているのな。
料理の材料も魔法の袋に入れてあるらしく、狼とは思えぬ用意のよさに些か呆れる。
「そういや、二人とも勘違いをしていたけれど、ぼくは祭司長じゃなくて、ただの戦士ですよ。エアル島を出るときに、戦士の試練だけは受けて合格しましたが、祭司ですらないんですが。それに、祭司長はオニール学長がいらっしゃいますし」
「祭司長は神ごとに一人ずつおりなんす。ティアナンは大いなる知恵神の祭司長。主様は太陽神の祭司長。重なり合うものじゃござんせん」
へえ、流石に太陽神の眷属と言うだけのことはある。
ファリニシュはオニール学長並みに知識はありそうだ。
仮にぼくが祭司長だとしても、これじゃ二人に見劣りするのは確実だ。
祭司長見習いの駆け出しくらいがいいところだろう。
「そんな主様に預けるものがありんす」
すっとさり気ない動作で、ファリニシュは魔法の袋から鞘に入った一振りの剣を差し出してきた。
装飾のあまりない旧い時代の剣だ。
だが、鉄とも違う金属で作られているな。
やけに存在感がある。
「これは太陽神の愛剣フラガラッハ。その力、鉄をも斬りなんす。これを主様が使いなんし」
渡された神剣は、細身でそこまで重いものではなかった。
だが、それでも金属の塊だ。
楢の木の棒より重い。
これはぼくに扱えるものなのか?
試しに鞘から神剣を抜こうとしたが、フラガラッハはびくともしなかった。
真っ赤になって引き抜こうとするが、全く鞘から抜ける気配がない。
それを見て、ころころとファリニシュが笑った。
「フラガラッハは神しか抜けなさんす。主様は神の眼をお持ちでござんしょう」
ああ。
そうね。
つまり、いつものぼくでは抜けないと。
早く言って欲しかったよ。
貰ったはいいけれど、これを抜ける機会とかそうそうないんじゃないかな。




