第二章 氷雪の魔狼 -12-
レオンさんが、氷河の崖を音を立てて滑り落ちていく。
ナイフを突き立てようとしているが、氷は硬く刃が立たない。
滑落を防げぬまま、恐ろしい勢いで落ちていく。
それを追ってクレバスに飛び込むが、すぐにこのままでは間に合わないと判断した。
距離が離れすぎているのだ。
少しくらい速度を上げても、レオンさんには追いつかない。
ならば、諦めるのか。
莫迦な。
ぼくには、少しくらいじゃない手段がまだ残されている。
集めていた周囲の魔力を丹田から体内に取り入れ、経絡を循環させ額の神の眼を解放する。
同時に神の目を中継とし、莫大な魔力が異なる世界から流れ込んでくる。
そして、それは神の力となって昇華され、神聖術が発動された。
「やらせるかあああ! 太陽神の翼!」
体の外を覆っていた勇敢な戦士の魔術は、体内に魔力が取り込まれて消滅する。
同時に額に神の眼の紋章が現れ、ぼくの両足が光に包まれた。
ぐんと目に見えてぼくの速度が上がる。
ぼくは光の尾を靡かせながら、空中を蹴ってレオンさんに追い付いた。
レオンさんは驚愕し、口を何度か震わせたが言葉にすることができなかった。
ぼくはレオンさんの体を抱え上げると、空中で急制動を掛けた。
ぼくの両足の光が、翼のようにふわりと広がった。
「まるでメルクールの黄金の靴だな……」
両足に光の翼を広げたまま空中に佇むぼくを見て、レオンさんは感嘆したように言った。
メルクールってアルビオン語ではマーキュリーだっけ。
あっちは元はアルカディアの神らしいから、ぼくらセルトの神とは根は違うと思う。
おっと、悠長なことはしていられない。
神聖術は神の眼の紋章が発動している間しか行使できないのだ。
この額の紋章は、魔力をひどく消耗する上に制御が難しい。
正直、今回巧く発動できたのもまぐれに近い。
それに、いつ解除されるかわかったもんじゃないんだ。
空中を蹴りながら、クレバスを駆け上がる。
勇敢な戦士の後遺症がすでに出始めており、全身に激痛が走って気が遠くなりそうだ。
それでも、十数歩で滑落したクレバスを駆け上がると、地上に飛び出した。
あれ、夕暮れの空が見えるな。
暗く垂れ込めていた雲が霧散し、吹雪が止んでいた。
そして、茜色の残光に照らされて、銀色の巨大な狼が彫像のように立っていた。
ああ、ファリニシュか。
まだ、こいつとの決着がついていないんだ。
レオンさんを雪上に下ろし、素早くファリニシュに対して身構える。
だが、そこで額の神の眼の紋章が消えてしまった。
それとともに一気に全身が脱力し、ぼくは氷河の上に膝を突いた。
く……くそ、勇敢な戦士と太陽神の翼の反動が同時にぼくの体に襲い掛かってきやがる。
全身の激痛と倦怠感に抗しきれず、ぼくは意識を手放した。
最後に視界に入ったのは、こちらをじっと見つめてくる二つの巨大な黄金の瞳であった。
魔狼は強かった。
あの決定機に螺旋牙を使っても、やつの防御を突破できたかはわからない。
だが、いけたかもしれないのだ。
あそこで一瞬止まってしまったのは、味方と連携する想定をしていなかったぼくのミスだ。
相方はレオンさんなのだ。
口ではああは言っていても、ぼくを見捨てて一人で戦わせる人ではない。
何でもっと信じられなかったんだろう。
何だかんだ言って、ぼくは魔術の力に頼って調子に乗っていたのだ。
自分の力だけでいけると思っていた。
連携することなど、頭の片隅にも入れていなかった。
あのタイミングで隙を作ったレオンさんの戦術眼は、流石に大したものだ。
魔弾の一撃が最大限生かされるときまで待ち、そして成功させたのだ。
魔狼は一秒は止まっていただろう。
「ぼくは大莫迦者だ……」
呟くと同時に、激しい全身の痛みがぼくを覚醒させた。
目を開き体を起こすと、雷を受けたかのような痛みが全身を貫く。
勇敢な戦士の反動にしてもこれは酷い。
「起きたか、アラナン」
すっとお湯が差し出されてきた。
思慮深い深緑の瞳が心配そうにぼくを覗き込んでいた。
レオンさんだ。
どうやらお互いに無事のようであった。
それなら、此処は……ああ、クライネルパスの山小屋だ。
万年雪の氷河からは下りてこれたのか。
「まあ飲め、アラナン。お前は二日間も眠っていたのだ」
レオンさんから陶製の器を受け取り、お湯を口に含む。
からからに乾いた喉に沁み渡るようだ。
そのままゆっくりとお湯を飲み干したぼくは、二日も眠っていたことに驚いた。
「二日も眠っていたんですか」
「まあな。やつが言うには、無理に神の眼をこじ開けた代償らしいんだが、それが何なのかおれにはわからなかった。やつも教えてくれないしな」
やつ?
と疑問に思ったときに、レオンさんがちらりと厨房の方を見る。
そう言えば、厨房からいい匂いが漂っているな。
「やっと目覚めなんしたか」
いい匂いのする皿を抱えた美女が、厨房から現れた。
年齢不詳だが、二十歳は過ぎているのだろうか。
レオンさんと同じ銀色の髪に、見覚えのある金色の瞳。
均整のとれたしなやかな身体つきながら、抜群のプロポーションを有している。
って、誰だ、こいつ!
「イリヤ・マカロワと申しんす」
「魔狼だよ、こいつが。人間に変化してんだ」
艶然とした笑みを浮かべた美女を、レオンさんがばっさりと切る。
憮然とした顔をするファリニシュに、レオンさんは嫌そうな表情を作った。
「よせよ、そう言うのは。おれはあんたほど複雑じゃないんだ。そう言う遊びは暇なときにやってくれ」
「野暮な男。もちっと遊びなんし」
煙るような目付きを向けられたレオンさんは、閉口して両手を上げた。
「どう言うことなんですか?」
首を傾げながら二人に尋ねる。
気絶した後の記憶がない。
何で魔狼が人間に変化してぼくらと一緒にいるのか。
戦闘はどうなったのだろう。
「主様は太陽神の祭司長でござんしょう」
魔狼が艶やかな笑顔を作る。
「わっちは太陽神の眷属。祭司長たる主様と諍うとは、しくじりささんした」
「ファリニシュが太陽神の眷属だって?」
初耳だ。
そうならそうと、言っておいてくれればいいのに。
ひょっとして、思い切り無駄な戦いをしていたのだろうか。
オニール学長とギルド長に嵌められたのだろうか。
「まあ、二人はついでにアラナンを育てようとしたに違いない。おれとファリニシュは、利用されたようなものだ。こいつも、おれたちをルウム教会の手の者と勘違いしていただけのようだしな」
「確かに魔狼をマリーの護衛にしろと言われたんであって、魔狼を退治しろとは言われてなかったですけれどね!」
色々言いたいことが巧く言葉にできず、ぼくは思わず立ち上がってしまった。
そして全身の筋肉痛に耐えかね、悲鳴を上げてまた倒れ込んだのである。




