第二章 氷雪の魔狼 -11-
気が付いたのは偶然だった。
ふと見上げた先に、違和感を感じたのだ。
殺気などを感じたわけではない。
むしろ、気配は殺されていた。
それでも体が動いたのは、エアル島での生死を賭けた訓練の賜物だろうか。
咄嗟にナイフで命綱を切り、雪上を横に転がる。
同時に今までいたところに巨大な白い影が着地し、盛大に雪を巻き上げた。
「アラナン!」
「無事です!」
レオンさんの心配する声が飛ぶが、気を向けている余裕がない。
目の前には、馬くらいはある巨体が凄まじい殺気を放って立っていた。
間違いない。
魔狼ファリニシュだ。
いつの間に近付いたのだろう。
「旋風!」
瞬間的に風を巻き上げ、吹雪を吹き散らす。
回復した視界に飛び込んできたのは、白銀の毛並みの巨大な狼。
金色の双眸に真紅の口腔が、銀白の中に鮮やかな色彩を放っていた。
ファリニシュ。
真っ白く、そして美しいけだもの。
曇天を劈く咆哮が、ぼくらの耳を打つ。
剥き出しになった牙が、恐ろしい速度でぼくに向かって飛んでくる。
必死に横に転がると、ファリニシュは雪煙を上げて新雪の中に突っ込んだ。
凶悪な牙だ。
あの太さに噛み裂かれたら、腕や足など容易く千切れ飛ぶ。
迂闊に隙を見せるわけにはいかない。
ぼくはアルペンストックを捨てると、楢の木の棒を構え直す。
旋風の効果が切れると同時に、再び吹雪がぼくとファリニシュを雪煙の中に隠していく。
だが、魔狼は明らかにこちらを視認していた。
あの黄金の瞳が、雪の中でぼくも姿を捉えている。
「勇敢な戦士」
死の恐怖に負け、ぼくは勇敢な戦士を唱えた。
周囲の魔力が急速にぼくに集まり、眼前の魔狼に匹敵する身体能力を与えてくる。
さて、赤級の魔物に匹敵する魔力を纏った場合、反動はどれほどになるものやら……。
いきなり、ファリニシュが飛び出てきた。
軍馬のごとき突進を、魔力を全開にして受け止める。
膂力は底上げされているが質量の差は如何ともし難く、雪を跳ね上げながら十フィート(約三メートル)ほど押し出される。
だが、そこで力尽くで魔狼の頭を押さえ込んだ。
ファリニシュの金色の瞳に怒りの炎が灯るが、全力を上げて魔狼の首を締めに掛かる。
魔狼はぎろりとぼくを睨め付けると、一声咆哮を上げた。
すると、腕の中の魔狼の体が見る見るうちに縮んでいく。
慌ててロックを強化しようとしたが、間に合わずするりと腕から抜け出られた。
「くそっ、変化もできるのかよ」
折角捕らえた魔狼に逃げ出されてしまった。
短期決戦を狙っていたのに、仕切り直しだ。
ぼくは流れ出る汗を拭うと、唇を噛み締めた。
勇敢な戦士のお陰で魔狼にも負けないほど体は強化されているが、すでに反動が出始めている。
この魔術は、魔力を体の外側に纏って攻防力や速度を上げている。
つまり、魔力の鎧が無理やり体を動かしていると言ったらいいのか。
それだけ、ぼくの体に掛かる負担は大きい。
だから、反動が出るのだ。
その反動が出始めていると言うのは、それだけ底上げしている力が大きいと言うことだ。
無理もない。
相手は危険度赤級の魔物だ。
普段のぼくの体なんて、紙でも千切るようにばらばらにされるだろう。
全力を出せる時間は短い。
急いで決着をつけるべく、ぼくは楢の木の棒に魔力を込める。
だが、先手を打ったのは魔狼の方であった。
ファリニシュのいる方角から、何かが飛来してくる。
視界の悪い中、ぼくは楢の木の棒でそれを叩き落とす。
ぱきんと音を立てて割れたそれは、どうやら氷の矢のようなものであった。
魔狼は肉弾戦を避けて、氷の矢を放ってきたのだ。
飛び道具で突き放されてはたまらない。
迎撃している間にこっちの限界が来てしまう。
加速して一気に距離を詰めようとしたところに、今度は無数の氷の矢が飛んでくる。
ぼくも十や二十の風刃を放つことはできるが、この氷の矢は百本近くあるんじゃないか?
結局、懸命に氷の矢を叩き落とすことになる。
どうせこいつは魔術で作った矢に違いない。
と言うことは、やつはほぼ無限に矢を放ち続けることができるはずだ。
魔力を尽きるまで待っている作戦は無理だろう。
そもそもぼくの体が勇敢な戦士に長時間耐えきれない。
ならば、どうするか。
無数の弾幕を突破せねば魔狼に辿り着けない。
ならば、少しでもその弾幕を薄くするしかない。
ぼくは楢の木の棒に魔力を込めると、氷旋風の魔術を解き放った。
呪文と同時に、ぼくを中心に氷の飛礫を含んだ竜巻が巻き起こる。
三語を使った魔術の威力は強力だ。
群がる無数の氷の矢を弾き飛ばし、粉々に破砕する。
予想もしていなかったぼくの魔術に、ファリニシュは怒りのあまり唸った。
「このまま……突っ切る!」
足が取られる新雪の雪原を、一気に魔術で凍らせる。
足場ができると同時に、ぼくは氷原を蹴って魔狼へと飛び込んだ。
ぼくの纏った氷旋風と、魔狼が吹き付ける強烈な暴風雪とが、激しく衝突して拮抗する。
もう一手が欲しかった。
だが、流石に魔術を三つ同時発動しているのだ。
これ以上の魔術を使う余裕はぼくにもない。
なら、此処から勇敢な戦士を乗せた螺旋牙を撃つべきか。
それしかないと、思ったときだった。
激しく衝突する暴風に紛れて、一発の銃声が響き渡った。
同時に、魔狼の頭に魔弾が命中し、ぐわんと揺れた。
だが、ファリニシュの魔力壁を突破できず、魔狼に傷はなかった。
「アラナン!」
呆けていたぼくに、レオンさんの叱責が飛んだ。
そうだ、レオンさんはぼくのために一手入れてくれたのだ。
だが、肝心のぼくが、その好機に一瞬立ち尽くしてしまった。
戦士としてあるまじきミスだ。
魔狼が舌を出して嗤った。
ぼくが決定機を逃したのがわかったのか、ファリニシュは身を翻してレオンさんに迫った。
「レオンさん!」
レオンさんは身体強化の魔法を使って逃れようとするが、魔狼の方が速い。
白銀の影が疾風の如くレオンさんに迫る。
ぼくも必死に追うが、影を後ろから追うので精一杯で届かない。
魔狼に飛び掛かられたレオンさんは、絶叫とともに後ろに数歩下がり、そして不意に姿を消した。
「うわああああ!」
レオンさんの悲鳴が下の方へ移動していく。
ぼくは咄嗟に地面を蹴った。
嫌な予感がする。
魔狼の脇をすり抜ける。
視界に飛び込んできたのは、雪原に開いた裂け目だ。
新雪がクレバスの上に積もって、見えにくくなっていたのだ。
「レオンさん!」
ぼくは躊躇せずにクレバスの中へ身を躍らせた。
崖を蹴って、速度を更に上げる。
だが、足りない。
これでもまだ追いつけない。
「やらせるかあああ! 太陽神の翼よ!」
瞬間、ぼくの両足が鮮烈な光に包まれた。




