第二十一章 乱世の胎動 -2-
ハーフェズ・テペ・ヒッサールの辞書には、臆病という言葉はない。
彼はいつも自分の力に自信を持っており、強者との戦いを楽しんでいた。
だから、彼がどんな無謀なことをしても、驚くには当たらない。
事実、彼は戦う覚悟で国に帰ったのだ。
「あの男は、父親に叛旗を翻した。指導者にもだ。国の大半を敵に回し、自ら悪魔の化身を名乗っている。正気と思えぬ所業であるな」
「ハーフェズが──太陽神の信者を糾合したのでしょうか」
「そうだな。東にはまだ黒石の教えに服さぬ者も多い。お陰で、イスタフルは西に目を向けることはない。だからこそ、余もリンドスに兵を進めたわけであるが、見事にそなたにしてやられた。学院の力を侮ったわ。新たなる長老には、精強な魔法師の育成を急がせねばならぬな」
「帝国と戦うことがもうないことを祈っておりますわ、陛下」
にこやかにマリーが言った。
「そうすれば、わたしたちは勝利で歴史を終わらせることができますもの」
「ぬかしよる」
からからと皇帝は笑った。
「しかし、陛下。ハーフェズに果たして勝ち目はあるのでしょうか」
友人の安否が気にかかり、ぼくは話題を戻した。
皇帝は目を伏せて軽く首を振った。
「まず勝機はあるまい。イスタフルも黒石の信者は多く、彼奴の支持者は少ない。だが、イスタフルの東、シルカルナフラにはまだ邪教の教えが根付いておる。その援助を受けているとしたら、意外と長く持つかもしれぬな」
その方がセイレイスにとっては有難いのだろう。
セイレイス帝国とイスタフル帝国は、ともに黒石教徒であるが、微妙に教えが違う。
黒石の宗教指導者としては、イスタフルの指導者の方が正統らしい。
セイレイス帝国では長老はあくまで皇帝を助けるもので、権力は皇帝に集中している。
だが、イスタフル帝国では逆に黒石の指導者の方が力が強い。
それがハーフェズには我慢がならなかったのであろうか。
「お言葉ですが、陛下。万の兵を揃えようと、ハーフェズなら一人で焼き尽くすかもしれません。こと属性魔法に関しては、余人の追随を許さぬ男です」
「ドゥリスコルよ、戦争は一人でやるものではないのだ。ひとつの戦場で勝利することができても、他の戦場全てで負けては決して最後の勝利は得られまい」
皇帝は今回の敗戦で多くを学んだようだ。
帝国の威信は落ちたが、壊滅的な打撃ではない。
遠からず傷を癒し、再び西進してくるだろう。
そのときは、今回のようにはいかないかもしれない。
「陛下は戦いにおいては一家言をお持ちですな」
向こうの会話が中断したのか、ヴァレット総長がこちらの会話に加わってきた。
「イスタフルからシャームとカスディムを奪い取り、ケメトの神の代理人を滅ぼし、フルヴェートの王を殺害した。全て一代で為したとは驚く他はございませんな」
ブラマンテ提督も、皇帝の偉業を讃えた。
マジャガリーとリンドス島で敗北があるとはいえ、全て敵地での敗北だ。
セイレイスの国内で敗れたことはない。
「リヒャルト・マティスよ、戻ったらティアナン・オニールにこう伝えよ。痛い教訓をもらったと。余は、この教訓は忘れぬぞ」
「賢明な判断でございます、陛下」
右手を振る皇帝に対し、マティス護民官は恭しく頭を下げた。
彼は機知に飛んだ受け答えができるようなユーモアのある性格ではなかった。
「今回の余の失敗は、ジュデッカを敵に回したことだ。今後は、元のよい関係を戻したいものだな」
「関税の軽減を大使にお話し下されば」
ブラマンテ提督は、ジュデッカの人間なら誰でもするしたたかな微笑みを浮かべた。
「ジュデッカはいつなりと応じる用意はございます」
「ジュデッカの商人というやつは!」
皇帝は大仰に肩をすくめた。
「失礼します」
そのとき、家令が汗を拭きながら足早に部屋に入ってきた。
皇帝を迎えての食事の席にしては、行儀のよい行いではなかった。
ヴァレット総長は咎めようと口を開きかけたが、それより早く家令が封蝋をした文書を取り出した。
「ルウムのシルヴェストリ枢機卿からの急ぎの書状でございます。わざわざ、早船で届けられました」
「ルウムからだと?」
ヴァレット総長は手招きをし、家令から書状を受け取った。
彼は封蝋を破ると、素早く巻いてある紙を開き、内容に目を通した。
みりみるうちに、彼の顔が赤くなり、そして青ざめた。
「悪い知らせですか、騎士団総長」
マティス護民官が、やや遠慮がちに聞いた。
秘密の内容なら、聞くことも憚られる。
ヴァレット総長はマティス護民官からブラマンテ提督に視線を移し、そして最後に皇帝ヤヴズを見た。
「よくない──そう、よくない知らせです。皇帝が崩御なされました」
一瞬、室内が静寂に包まれた。
誰もが固まったように動きを止め、呼吸すらすることを忘れて押し黙った。
皇帝。
勿論、この場合の皇帝とは、ヤヴズのことではない。
ヴィッテンベルク皇帝にしてヴィッテンベルク王、ラティルス王、レツェブエル公、モラヴィア辺境伯、ブルグンド伯のバルドゥイン・フォン・レツェブエルだ。
「皇帝が──」
マティス護民官も絶句していた。
あの病状から、長く保たないことは容易に想像できていた。
だが、それでもバルドゥイン一世の死は、息を飲むのに十分なニュースであった。
「そうか。では、西も戦争が起きるであろう」
みなが、舌が痺れたように発言できないでいるところに、静かに皇帝が言い放った。
それは、決して大きな声ではなかったが、静まり返った室内では耳を打つほどに響き渡った。
「戦いは、ボーメンとエーストライヒの間で起こる。面白くなってきたようだな。セイレイスに動いてほしくなければ、ヴァレットにブラマンテよ。精々補償の金額を値下げして余の機嫌を取っておくことだな」
皇帝も老練な政治家であった。
こんなときにまで交渉の材料をねじ込んでくるとは、ジュデッカの商人も真っ青だ。
ブラマンテ提督も妹と目を合わせると、息を吐いて両手を広げた。
ジリオーラ先輩はにんまりと笑うと、顔を左に向けた。
「賠償金の代わりにケメトの小麦ってのもおもろいちゃいますやろか。兵糧もぎょうさん余りましたやろ」
「──妹の発言は冗談として聞いておくが、ブラマンテ提督。大使にその要求を入れ知恵しないようにしてもらいたいものだ」
セイレイスから大量の麦を奪い取って軍事行動を起こせなくさせ、その小麦を戦争が起こったらボーメンかエーストライヒに売るつもりかな。
流石にジリオーラ先輩だ。
根っからのジュデッカの商人だよ。




