第二十章 リンドス島攻防戦 -5-
迷いは一瞬であった。
だが、ジャファル・イブン・ナーシルは、その間に次の行動に出ていた。
老人が杖の先に魔力を宿らせ、宙に魔法陣の要領で何か文字を書く。
楔が並んだような文字──読めないが、古い文字であるのはわかる。
宙にその文字が躍ったかと思うと、光とともに老人の背に白い翼が生じた。
あれは、文字魔法。
神聖術でも特殊な部類の秘術だ。
だが、ハーフェズが以前言っていたように、黒石教がルウム教会と同じ神ではなく、知恵と書記の神ネボを奉じているのだとすると、文字を扱うのも納得できる。
「アードゥアラー! クデイカービレー!」
上空にジャファルが舞い上がってくる。
面白い。
ぼく以外で翼を持って空を翔ける者を初めてみた。
「セイ・ウン・ウマーノ・ジュデッカ?」
杖を向け、老人はぼくを睨み付ける。
ん、何か言葉がわかるようになったと思ったら──これはルウムやジュデッカの言葉だな。
「ぼくはジュデッカの人間ではない。自由の旗を掲げる者さ」
アルビオン語ではなく、ヴィッテンベルク語で返してみる。
老人は白い眉を動かし、窪んだ目を見開いた。
「ヴィッテンベルク──いや、ヘルヴェティアの援軍が来ておったな。そうか、魔法学院──貴様がアラナン・ドゥリスコルだな」
流暢なヴィッテンベルク帝国語で、老人は返してきた。
ぼくより上手い。
しかも、瞬時にこちらの素性まで推察してのけた。
ターヒル・ジャリール・ルーカーンあたりから、フェストの情報は入っているんだろうな。
「そういう貴方こそ、黒石の長老ジャファル・イブン・ナーシルですね。皇帝の顧問、大宰相が右腕だとすると、貴方は左腕だ」
「ふん。ティアナン・オニールの手先だとしたら、何故我らの邪魔をする。我らの敵はルウム教会であって、貴様らではないぞ」
「今回はルウム教会の援軍ではなく、ジュデッカの援軍ですからね。海はセイレイスには渡さない。そういうことでしょう」
「愚かなことだ。至高の帝国に逆らうことは、すなわち死を意味する。それでは死体として戻り、ティアナン・オニールに愚行の反省を告げよ!」
老人が杖の先に魔力をこめると、そこから風の渦が発してぼくに向かってくる。
竜巻のようなものか。
だが、この程度の速度に捕まるぼくではない。
光の残滓を残し、尾を引きながら急上昇をする。
老人も素早く反応し、ぼくを追って上昇するが、最高速ではぼくの方が速い。
背中に回り込むと、神銃を連射してみる。
だが、杖をかざされるとタスラムの銃弾が逸れていく。
この老人に、飛び道具は通用しないのか?
接近戦を仕掛けてもいいが、それでは時間がかかりすぎてしまいそうだ。
この奇襲は迅速さが肝要。
時間のかかる敵は避け、多くの艦を沈めなければならない。
老人の杖の先から離脱すると、追いすがるジャファルを振りきりながら、彼が飛び立った輸送帆船に聖爆炎を幾つも放り込む。
甲板上で連鎖的に爆発が巻き起こり、一際大きな爆発とともに甲板が吹き飛んだ。
あれは、火薬でも積んでいたか。
槍で穴を穿つまでもなく、帆船が沈んでいく。
後方の老人からは、連続して火炎弾が放たれてくるが、回転して上昇し、振り切ると次の標的に狙いを定める。
荒らし回ったせいか、戦闘用ガレー船が随分この海域に入り込んできていた。
銃弾や矢が、あちこちで飛び交っている。
大分うるさくなってきたな。
(アラナン、引き上げろ。こちらは撤退する)
ノートゥーン伯から、タイムアップを知らせる念話が届いた。
ベルナール先輩の方は見ていなかったが、大分敵兵に上陸されてしまったのだろうか。
クリングヴァル先生がいるから大丈夫だろうが、全員無事だといいが。
(了解。帰投します)
手短に伝え、身を翻して島へと方向を転じた。
帰り際の駄賃に、目にした船に無差別に聖爆炎を投げ込んでいく。
次々と炎上する艦に、追いすがってくる老人は歯噛みをしたが、ぼくの前に出るほどの飛行速度がないと、ぼくを止めることは不可能だ。
砂浜には、すでに多くの小舟が上陸していた。
千人ほどが砂浜で陣を作り、千人ほどがベルナール先輩たちがいる地点の攻略に向かったらしい。
先輩たちはすでに迎撃拠点を放棄し、リンドス西方の丘に築かれたヘルヴェティア軍の陣地に向かって退却をしていた。
追撃をしてくる兵に関しては、クリングヴァル先生の両脇をティナリウェン先輩とトリアー先輩が固め、蹂躙しているようだ。
牽制の聖爆炎を上空から投下してやると、追撃する兵士の集団が吹き飛び、その足を止め混乱している。
その隙に、先輩たちは無事撤退できたようだ。
ぼくも立て続けに爆炎の雨を降らせると、攻撃を切り上げて丘へと帰った。
太陽神の翼を引っ込め、神の眼を解くと流石にどっと疲れが襲ってくる。
「ご苦労、アラナン。どれくらい沈めたかね」
「十隻くらいですかね。途中、敵のジャファル・イブン・ナーシルに追い回されたんで、少し時間を取られました。ぼくが退却するといつの間にか消えていましたけれど」
「黒石の長老だと。また随分大物を相手にしていたな。無事でよかったが、危険な敵は相手にしなくていいからな」
「無視して退散しましたよ。向こうも様子見のようでしたが、少なくとも文字魔法をひとつは見せてもらいました」
ノートゥーン伯に声をかけられ、報告を済ませる。
ジャファル・イブン・ナーシルとの遭遇はやはり危険視され、迂闊に近寄るなと釘を刺された。
だが、今後の展開次第では、ぼくが相手をするしかないだろう。
彼の神聖魔法に対抗できるのは、恐らくぼくだけだ。
「緒戦の戦果としては十分だ。セイレイスも出鼻を挫かれ、士気を落としただろう。将軍に報告してくるから、休憩しておけ」
そう言うと、伯爵は丘の上の陣舎に向かって歩いていった。
他の人の様子を見ると、ベルナール先輩だけは異常に消耗しているけれど、後の人は何でもなさそうな表情をしているな。
まあ、ベルナール先輩は魔力の使いすぎなんだろうが、先生たちは軽く運動したなって顔である。
「物足りなさそうですね、先生」
「そうだな、ちょっと歯応えがなくてなあ。最初に上陸してきたのは、ミクラジア軍管区の兵だな。皇帝親衛隊に比べれば、練度が低いぜ」
「先生一人で蹴散らしなさるんだよ。あたしらの出番なんてまるでなしさ」
「あの千人長は、恐らく斬首されるだろうな。皇帝は失敗に甘くない」
クリングヴァル先生が余裕を見せると、トリアー先輩とティナリウェン先輩も続けた。
奇襲の成功に高揚しているのかな。
普段寡黙なティナリウェン先輩も口が軽そうだ。
一番の功労者のベルナール先輩は、息も絶え絶えだけれどね。
お疲れ様、先輩。
炎の芸術家の面目を保ちましたね!




