第十九章 白光の脅威 -8-
「セイレイス皇帝家などより、よほど正統なトゥルキュトの血を伝えるアセナの王が、かようなところで人に使われているとは情けなや。そろそろ死の女王の接吻を受ける頃合いではありませぬか?」
上空に浮かぶアルトゥンは、仕掛けてくる様子はない。
だが、大気が震えるほどの魔力を発し、威圧をかけてきていた。
「過去の妄執だ」
飛竜のいらえは短く、拳と同様一撃で葬り去る。
アルトゥンの顔はベールで見えないが、唇が震えているのはわかった。
「黄金の天幕も崩壊し、魔王の血族も東に逃れたじゃろう。いつまでも下らぬ夢を追いかけずに、草原に帰れ」
大魔導師も、アルトゥンに負けぬ魔力を放って威圧を押し返していた。
黒衣の魔女は、更に下唇を噛む。
「黄金の天幕も王の末裔のひとつに過ぎませぬ。本物の王の中の王が現れたとき、草原の全てがその者に従うのです。そのときは、大陸の全てが彼にひれ伏すでしょう。ティアナン・オニール、そなたといえども」
「諸侯の下働きをする程度の現状で、その夢が叶うとでも思うのかね?」
学長の声は静かではあったが、込められた迫力に魔女は僅かに身じろぎした。
「サビル王国が滅びてより五百余年。アセナの名ではもはや草原の民は動かぬ。魔王の血族も西より去り、草原の道には新たなる支配者が生まれておる。──アルトゥン、おぬしも現実を受け入れるべきじゃ。聖典の民を利用するのはやめよ」
「──老人、下がりおろう!」
アルトゥンが右手を振り払うと、巻き起こった旋風が大魔導師を襲った。
だが、学長が指を弾くと風は一瞬で消え去り、魔女と学長の間の緊張だけが高まる。
「──ふん、いいでしょう。今日はそのアラナン・ドゥリスコルという子供を見にきただけです。王の拳を受け継ぐ者として相応しいのか否か──。予想通り、その器にはあらずと見ました。やはり、王の拳の後継者には、センガンこそ相応しい。いずれ、そこのスヴェン・クリングヴァルと一緒に、死の女王の抱擁を与えてくれようぞ!」
「おれもかよ」
へらへらと歯を見せながらクリングヴァル先生が笑った。
「おれとの喧嘩は高くつくぜ、魔女め。いつでも受けてやるから、かかってきな!」
「ふん、その増長した口の聞き方も、いつか後悔させてやろうぞ」
アルトゥンは鼻を鳴らすと、黒衣を翻して北に飛び去っていった。
大魔導師は髯をしごきながら、ちらりとシピを見る。
シピは、残念そうに首を振った。
「付けたしるしは、外されてしまったわ。追跡はできないわね」
学長かぼくなら後を追おうと思えば不可能ではないだろうが、深入りを避けるだけの力をアルトゥンが持っているということだろうか。
「アラナンの顔を見にきた程度で、これだけ山を破壊されたらたまらんのう」
学長は周囲の惨事に目を向けると、悲しげにため息を吐いた。
木々はへし折られ、大地も掘り起こされ、あちこち黒煙が燻っている。
巨人の通ってきた道は、折れた大木でひどい状態だ。
ベルナー山脈の美しい自然が、惨憺たる有り様になってしまった。
「ぼくのせいじゃないですからね」
おっと、念のために予防線を張っておこう。
これがぼくのせいで起きた災害だと言われてはたまらない。
「誰もそなたのせいじゃとは言うとらんわい。──それにしても、頭の痛いことじゃのう、イリグよ」
「嫁の躾がなっていなくてすまぬな」
「あの様子では、この先もちょっかいを出してきそうじゃ。おぬしの息子が出てくるようなことになれば、相手ができるのはおぬしだけじゃぞ」
「わかっておる。決着はつけねばなるまい」
「評議会で女子に悩まされていたところなのにのう。昨今の娘は元気がいいわい」
「オルシーニ嬢は、また特別よ」
くっくっと飛竜が笑った。
いつも謹厳な表情をしているアセナ・イリグが笑ったのは、初めてだ。
いや、ぼくは初めて見た。
それだけ、学長と飛竜を、コンスタンツェさんが悩ませているのだろうか。
「皇帝からの書簡に、教皇はかなり焦っておるようじゃな」
「リンドス島が押さえられれば、ノストゥルムの内海はセイレイス帝国に支配される。ジュデッカ共和国も慌てておろう?」
「皇帝に、関税を上げられたらしいの。ジュデッカとルウム教会が歩調を合わせるとは、珍しい話じゃ。リンドス騎士団の救援──せざるを得ぬかのう」
二人の会話で、評議会の議題が何となくわかった。
セイレイス帝国が、ノストゥルムの内海に浮かぶリンドス島に侵攻しようとしているのか。
フルヴェート王国を滅亡させ、マジャガリーで敗れた後の再侵攻である。
またマジャガリーに来ると思っていたが、どうやら今度は艦隊を率いて海に来るようだ。
確か、リンドス島の南西にあるカンディア島には、ジュデッカのノストゥルム艦隊が駐留しているはずだ。
セイレイス帝国との奴隷交易で莫大な利益を上げているジュデッカが艦隊を動かす事態になるとは意外だったが、それだけジュデッカはリンドス島を重視しているのだろうか。
「クリングヴァル先生、ヘルヴェティアが出兵ですか?」
「ん? ああ、ヘルヴェティアとして兵を出すわけじゃない。兵を貸すのさ。ヘルヴェティアの兵は、マティス護民官の調練で強兵に鍛えられている。ま、傭兵というやつさ。今回は二、三の都市から兵を集めて再編し、ジュデッカに貸すという形になるんじゃねえかな」
海戦にヘルヴェティアの陸兵の出番はないが、リンドス島にセイレイス帝国の兵が上陸したときには必要になる。
ヘルヴェティアも教会の意向だけなら無視できても、手を結ぶジュデッカの要請は退けられないようだ。
「何にせよ、学院生には関係ねえさ。お前らが派遣されることはない。自分の鍛練をしっかりやっとけよ。──変な女に目を付けられているみたいだしな」
「よして下さいよ。ただでさえ、闇黒の聖典はぼくに目を付けている連中ばかりなんです。これ以上はいりませんよ」
「そうだな、最近エリオットたちにかまけて、アラナンの鍛練が少し疎かになっていたかもしれんなあ。変な連中に負けんように、戻ったら少し鍛え直さないと駄目だな」
うへえ。
最近ようやく緩くなってきたのに、またあの地獄の特訓に逆戻りするんじゃないですよね!
あれのお陰で、中等科に上がってから半年以上学院の行事にもろくに参加できなかったんですよ!
「しかめっ面してるですね、アラナン」
戻るためにアンヴァルを呼び寄せると、苦虫を噛み潰しているのがばれたか、声をかけられる。
「先生が張り切っていてね。明日から、当分素敵な日々になりそうだよ」
「あいつは鍛練しかすることがないんですよ。あんなのと付き合っていたら、ご飯を食べる時間もなくなっちゃうんです。アンヴァルは断固抗議するですよ」
「いつもぼくが戻らなければ、勝手に食べてるじゃないか」
冷静に指摘をすると、アンヴァルは口を噤んで馬にと姿を変えた。
とぼけても駄目だぞ!
いつも宿代に、お前の食事代が上乗せされてくるんだからな!




