第十八章 アプフェル・カンプフェン -10-
ハンス・ギルベルト・フォン・ザルツギッター。
帝国の有力部族であるザッセン人の領袖たるザッセン辺境伯の後継者であり、将来の帝国を背負う大貴族の一人だ。
ザッセン人は、アングル人とともにアルビオンにも襲来してきており、アルビオンの貴族の中にはザッセン人の血を継ぐ者もいる。
アルフレートのローゼンツォレルン家とも縁戚であり、帝国北部を事実上支配していると言っても過言ではない。
実力から言って、次の皇帝になってもおかしくない男であるが──ザルツギッター家にはその野望がないのか政争の話は聞こえてこなかった。
だが、ハンスのいいところは、それだけの大貴族にも関わらず、鼻につくところがないことだ。
性格は真っ直ぐで高潔である。
友人として、これほど気持ちいい男はいない。
剣もまた、彼の性格を映して正面からの撃ち合いを好む。
ぼくの前に立ったハンスの気迫の篭った目を見れば、一撃に全てを賭けて撃ち込んでくるのは明白であった。
「中級迷宮で鍛えられているのはわかるが──ハンス、その間合いは剣の間合い。ちょっと遠くないか?」
「問題ない。わたしは此処からでも踏み込める」
「そいつは楽しみだ。全霊を込めた一撃。掛かってこいよ、ハンス!」
「行くぞ、アラナン君!」
ハンスの足が大地を蹴る。
飛び込み突きにも似た遠間からの一撃だが、来るのは突きではなく斬り落としだ。
身体強化だけでなく、付与魔法で強化されたハンスの脚力は、易々と彼我の距離を零にする。
魔力の尾を引いた両拳が、鉄槌のようにぼくの頭上に振り下ろされる。
ぼくは、右手でハンスの拳を受け止めると、そのまま体の左下に向けて力を流した。
同時に体を半回転させ、両手を開くようにしながら背中からハンスに当たる。
双炎翼。
これは飛竜ではなく、クリングヴァル先生の開発した技だ。
吹き飛ばされたハンスは、まだ意識はあるものの体が動かないようだ。
「アラナン君の手に触れた瞬間、こちらの力が抜けたように感じたよ。あれも魔法なのか?」
「いいや。ただの技さ」
ぼくは気絶しているヴォルフガングから林檎を奪い取る。
この瞬間、ぼくらの優勝が決まった。
「やあ、間に合ってよかったな、アラナン。もう少しで負けるところだったぜ」
地面にひっくり返ったカレルが手を上げる。
どうやら、マリーに林檎を奪われていたようだ。
ヘルマンも翻弄されており、確かに後十秒あったら逆に負けていたかもしれないな。
「いやあね。ハンスとヴォルフガングでも、足止めしきれなかったの?」
「残念ながら、時間稼ぎすらできなかったよ。まさに完敗さ。ほら、ヴォルフガング君。しっかりしたまえ」
ハンスに揺さぶられ、ヴォルフガングが体を起こした。
頭を振ると、両手を広げて呆れたように言った。
「黒騎士がフェストで引き分けたといっても、ただの偶然の巡り合わせだと思っていました。だが、それは思い込みであったようです。どんな波にも崩れない大岩に向かっているような気がしましたよ」
「お褒め頂き有難う、ヴォルフガング。お前さんも、初等科にしてはいい動きだったよ。そうだな──ヘルマンよりも大分ましだ」
「ひどいっすよ、兄貴!」
「事実だから仕方ない。負けたくなければ頑張れ。──ぼくだって、入学した当初はハンスに何度も負けていたんだぜ」
ぼくがそう言うと、ヘルマンとヴォルフガングは信じられなさそうに顔を見合わせた。
それを見て、楽しそうにマリーが笑った。
「あら、本当よ。アラナンの身体強化は荒っぽくて繊細さに欠けていてね。全然操作できていなかったんだから」
「確かに、当時のハンスは無敵感あったよな。剣技と身体強化の調和において、ハンスに敵うやつはいなかったもんな。遠距離魔法が出てくるまでは」
マリーとカレルに説明され、ヘルマンとヴォルフガングはやる気にスイッチが入ったようであった。
ヴォルフガングは相手にしていないが──ヘルマンはヴォルフガング相手に必ず勝つと息巻いている。
仕方ないな。
今度、ヘルマンの特訓に付き合ってやるとするか。
「おーい、小僧ども。競技は終了だ。校舎の前に集まれー」
クリングヴァル先生が、その場所から動かないぼくたちを呼びにきた。
ぼくの師ということでクリングヴァル先生にも従順なヘルマンは、さっさと立ち上がる。
だが、ヴォルフガングは背の低い先生を小莫迦にしたように見ると、鼻を鳴らした。
「何だ、随分活きがいい初等科生がいるじゃないか、アラナン」
「申し訳ございません、先生。入ってきたばかりで、まだ相手の力が測れないのでしょう」
ヴォルフガングはフェストを生で見ていないのか。
クリングヴァル先生が、黒騎士に匹敵する実力者だってことがわかっていないのだろうか。
「ふん、まあ若いのはいいことだ。おい、そこの小僧!」
すっとクリングヴァル先生がヴォルフガングに右手を差し出す。
何の気なしにヴォルフガングがその手を握ると、いきなり彼の表情が凍りついた。
「なっ──手を握られているだけなのに、体が動かない──」
「知らなかったか? 飛竜の拳士に体を触れさせちゃあならねえって。もう、これだけでお前の体の動きはおれには筒抜けだ。その裏を取ることなんざ、造作もない」
にやにや笑いながら、クリングヴァル先生はヴォルフガングの肩に手を置いた。
「クロエの嬢ちゃんを見て、学院の教師なんざ大したことはないと思ったか? はっ、そりゃあ思い上がりもいいところよ。初等科なんざ、学院にとっちゃあお遊戯の時間だ。強くなりてえんなら、もっと上まで昇ってくるんだな」
そう言うと、クリングヴァル先生はヴォルフガングの手を離した。
ヴォルフガングは膝を突くと、滝のような汗を流し、荒く息を吐いている。
「──ハンスさん、何者ですか、あの人は」
「何だ、ヴォルフガング君、知らなかったのか。あの人は、スヴェン・クリングヴァル先生。アラナン君の師で、かの飛竜の直弟子だよ」
「げっ、あのアラナンさんの師ですか。道理で──手を握られただけで、深海の底に引きずり込まれた気がしましたよ」
「わたしたちが目指しているのは、そういう相手さ。君はまだ、その麓に立ったに過ぎない。精進するんだね」
クリングヴァル先生の後を追って歩きながら、先生がわざわざヴォルフガングにちょっかいを掛けた理由を考えていた。
本来、クリングヴァル先生は自分の鍛練以外にはさほど興味はない。
ちょっとヴォルフガングが生意気だったくらいで、あんなことはまずしない人だ。
その先生が興味を持ったということは、それだけヴォルフガングが有望だということだろう。
いまはまだぼくとの差は大きいが、将来駆け上がってくるのかのしれない。
そして、その日がそう遠くない予感が、ぼくの体を包んでいた。




