第一章 黒猫を連れた少女 -2-
シャルロットの旅券が、認証機の中に吸い込まれる。
表示された文字を見て、兵士はまた眉をひそめた。
「シャルロット・カリエール、十五歳、女、アルマニャック王国所属、職業は冒険者、目的地はフラテルニアか。御者が護衛と言っていたのはお前か?」
「ええ、そうよ。レミで雇われて、同行することにしたの」
まだ幼さの残るシャルロットの容貌を見て、兵士は信じられなさそうに首を振る。
見たところシャルロットは鎧も付けていないし、武器も細身の剣だけだ。
王国内は魔物の発生はそこまで多くはないが、野盗などは横行している。
とても、シャルロット一人で護衛が務まるとは思えないのだろう。
「どうした」
兵士が手間取っているのを見て、偉そうな男が近付いてきた。
上質な外套を羽織っているところを見ても、この城門の衛兵の責任者なのかもしれない。
兵士は振り返って、外套の男に何か説明している。
「貸してみろ」
外套の男はシャルロットの旅券を手に取ると、目を細めて眺めた。
そして、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「偽装の魔術だな。認証機を誤魔化すとは大した腕だが、熟練の衛兵はそう簡単に欺かれんよ。ま、おれにはこの偽装を解除はできないが、嬢ちゃんが解除してくれないなら残念ながら拘束することになる。どうするかね」
おいおい、どう言うことだ。
ぼくは慌ててシャルロットの顔を見た。
シャルロットは落ち着いていたが、若干顔色が青くなっているように見えた。
「その旅券は本物だわ。貴方たちはアルマニャック王国の旅券を信用しないと言うのかしら」
「確かにこいつは本物の旅券だがね。中の情報は書き換えられている。おれには、偽装を見破る特別な目があるのさ」
流暢なヴィッテンベルク語を話すと言うことは、この男は地元の人間ではなく帝国の人間かもしれない。
司教に近しい人間と言うことは、ぼくにとってもあまり都合のいいことではない。
思わぬ事態に嫌な汗がじっとりと背中を冷たくする。
「お嬢様!」
御者の叫び声が聞こえてきた。
同時に、シャルロットはいきなり細身の剣の鞘で男の鳩尾を打ち、旅券を奪い返して馬車の外に蹴り飛ばした。
って、ちょっと、シャルロットさん、なにやってるんですか!
がたんと馬車が揺れた。
と、見る間に馬車の揺れがひどくなる。
街道を外れて、原野を走り始めている。
背後から衛兵の怒鳴り声が聞こえてきた。
え、バジリアに立ち寄らないつもりなの?
ぼくは唖然として目の前の少女を見つめる。
シャルロットは平然とした様子のまま、扉を閉めて座り直した。
飛び退いていた黒猫が、ふわりとシャルロットの肩に飛び乗る。
「ごめんなさい、少年。巻き込んでしまったわね。まさか、偽装の魔術が看破されるとは思わなかったわ」
「あれは真実の目の技能持ちよ。運が悪かったわね」
シャルロットが謝ってくる。
謝られても正直困るところだが、それはいいとして……。
いま、黒猫が喋らなかったか?
「えっ、ね、猫がしゃ、喋った?」
思わずどもりながら叫ぶと、ころころとシャルロットが笑った。
「貴方も魔法学院に行くのでしょう。使い魔くらいで驚いていては笑われるわよ」
「え、じゃあ君も魔法学院に? 護衛の仕事じゃなかったのか」
思わずアルビオン語で叫んでしまったが、シャルロットは気にしていないようであった。
「偽装の魔術を使ったと言ったでしょう。名前も職業もみんな出鱈目よ。わたしの本当の名前はマルグリット・クレール・ド・ダルブレ。アルマニャック王国の魔法学院の推薦者よ。理由あって、本名で旅券を使うわけにはいかなかったのよ。探されると、一発で足取りがわかってしまうのが難点よね」
「マリーはアルトワ伯の娘なの。けれど、ロタール公フランソワ・エティエンヌ・ド・シャトノワの爺がマリーを嫁に迎えようと宮廷に働きかけていてね。ロタール公領を通るには変装して旅券も変えるしかなかったのよ」
ロタール公領って、バジリア司教領の前に通ってきたところだよな。
ってことは、国境が厳重だったのって、この子のせいってことか。
なんて人騒がせな!
そして、何でぼくを巻き込んだ!
「お嬢様、追ってきます!」
御者の逼迫した叫び声が聞こえる。
窓から外を見ると、後方から馬に乗った外套男と、徒歩の兵士が十人ほど追い掛けてくる。
そりゃ、偽装旅券なんて使っていれば当然だよな。
と言うか、ぼくは情報を読み取られているんだけれど、大丈夫なのか?
そもそもぼくって逃げる必要ないよな。
馬車から飛び降りた方がいいんじゃなかろうか。
「下手に捕まると痛くもない腹探られるわよ。ルウム教徒でないならね」
いいタイミングで怖いこと言ってくれるね!
「大丈夫よ。自由都市領に入れば、外の法は通用しないわ」
「えっ、すると、このまま自由都市領まで逃げ切る気?」
バジリアからフラテルニアまで、五十マイル(約八十キロメートル)はあったと思うけれど。
駈歩では馬が潰れるし、普通に行けば十時間以上はまだ掛かる道のりだ。
いや、バジリア司教領さえ抜ければ問題ないのか?
それなら、一時間くらいで抜けられると思う。
徒歩の衛兵は振り切れるだろうし。
でも、騎馬の隊長は無理だ。
あれが部下を振り切って追い掛けてきたら、馬車を牽いているこっちの方が確実に遅い。
と言うか、もう振り切ってきた!
馬車の横に並走するように馬を寄せてくると、相変わらずの帝国語で叫ぶ。
「止まれ! これ以上逃走を図るようなら、身の安全は保障できないぞ!」
シャルロット、いやマルグリットか。
マルグリットは、問答無用で勢いよく扉を開けた。
いきなり扉がぶつけられるように迫ってきた騎馬の隊長は、慌てて馬首を巡らせて衝突を避ける。
ちっ、なかなか馬術の巧みな隊長だ。
あれは騎兵の訓練も積んでいるかもしれない。
「マリー、剣じゃ届かないわ」
細身の剣で隊長を牽制しようとしたマルグリットに、黒猫がのんびりした口調で注意する。
「わかっているなら、なんとかしてよ、シピ!」
「そんなこと言われても……何か投げてみるとかどうかしら」
投げるものと言っても、馬車の中には自分たちの荷物しかない。
マルグリットがちらりとぼくの荷物を見た。
おい、まさかぼくの荷物を投げるつもりじゃないよな?
「え、駄目だよ、投げさせないよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないのよ。愚図愚図してると、あいつが攻撃してくるわ」
確かに隊長も剣を抜いているな。
あれで御者とか馬とか斬られたら、馬車を走らせることもできなくなる。
でも、だからと言ってぼくの荷物を投げる必要はないだろ!
やれやれ、仕方ない。
ぼくは荷物の側に置いてある楢の木の棒を手に取る。
手首よりも細いくらいの何の変哲もない棒だ。
六フィート(約百八十センチメートル)ほどの長さはある。
これが、ぼくの愛用の武器だ。
「ちょっとどいて。ぼくがやるよ」
そうマルグリットに声を掛けた。