第十一章 闇黒の聖典 -7-
人狼。
恐ろしげな黄色い虹彩に真っ赤な口腔から覗く長い牙。
指先からは鋭い爪が伸び、全身は黒檀のような毛で覆われている。
そして、何よりはち切れんばかりに膨れ上がった筋肉と魔力。
膚で感じるその強さは、黄金級冒険者に匹敵するのではないか。
「覚悟はいいなあ、アラナン・ドゥリスコル。こうなったおれは、もう優しくないぜえ!」
大きく一声吠えると、コーヘンの姿がかき消えた。
はっと気付いたときには、大きな爪が眼前に迫っている。
疾い。
明らかに、数段階速さのレベルが上がっている。
かろうじて腕を交差させて防いだが、コーヘンの爪は易々とぼくの肉をざっくりと斬り裂いた。
激痛とともに、その切れ味に対する恐怖が忍び寄る。
「ひゃはははは、血だあ」
コーヘンは爪から滴る血をぺろりと舐めると、身悶えして叫んだ。
「ひゃあ、うめえ。流石、極上の魔力が宿ってやがる!」
「──人の一張羅を台無しにしてそれかよ」
赤黒く変色したシャツの袖の残骸を見ながら、ため息を吐く。
そして、再び勇敢なる戦士を使った。
激しい光がぼくを包み、一気に勇敢なる戦士の効果が上昇する。
集まった魔力の量は、コーヘンの危険度を告げるに十分だ。
「その喉笛を食い千切ってやるぜ!」
今までの鈍重な動きが嘘のように、野性の獣のようなしなやかな動きでコーヘンが飛び掛かってきた。
拳闘の動きなど、何処かに行ってしまっている。
速度に任せて振り下ろされる爪の攻撃を、強化した看破眼で見切ってかわす。
だが、予備動作もなくいきなり飛んでくるので、結構ぎりぎりだ。
反撃の余裕がないぜ。
「ひゃあははは、手が出ないかあ、アラナン!」
矢継ぎ早に爪を繰り出しながら、時々噛み付きが混ざってくる。
そうかと思えば、思わぬ角度から蹴りが飛んでくる。
防戦一方になり、ぼくの体はあちこちに爪で抉られた傷ができた。
くそっ、息継ぎしないな、この人狼め。
一瞬攻撃が止まれば、こっちの反撃もできるものを。
いや、そうか。
守りながらでも、できる攻撃があった。
強烈な右の回し蹴りを、何とか左腕で防いだ。
その瞬間、コーヘンが小さく叫び声を上げる。
「て、てめえ、受けでも魔力喰いかよ!」
「触れさえすれば、攻防自在だとも」
さて、攻め手が止まった。
この好機を逃す手はない。
高速で左右の探査掌をコーヘンの鼻面に入れる。
人狼が一歩後退した分を踏み込んで、真っ直ぐ胸元に竜爪掌を叩き込む。
そのまま流れで腕を畳み、右足を更に踏み込んで下から突き上げるように尖火の肘撃ちに繋げた。
たまらず吹き飛ぶコーヘン。
打撃部分は魔力を奪っているから、再生の効きが悪い。
胸が陥没したようになっているのを見ると、肋骨が折れて内蔵にも損傷を負ったはずだ。
倒れて動けないコーヘンに馬乗りになり、両手で頭を掴む。
「さて、王手だ、コーヘン。お前の頭の中にいるやつにおさらばしてもらおうな」
宣言とともに、両手で一気に頭の魔力を喰い始める。
コーヘンの体がびくんと跳ねたが、両足で固定して離さない
コーヘンの魔力を一気に奪ったため、抵抗する力も弱まっていく。
さあ、いよいよコーヘンを操る黒幕とのご対面だ。
コーヘンの精神障壁を喰い尽くすと、頭の中に巣食う魔力が剥き出しになる。
そいつは、コーヘンの障壁がなくなると、何故かにたりと嗤ったように感じた。
無論、顔があるわけではないから、表情などわからない。
だが、そういう波動が読み取れたのだ。
コーヘンの意識が、ぶつりと途切れる。
それと同時に、頭に固定していた両手が、猛烈な勢いで弾かれた。
頭の中の魔力が膨れ上がり、可視化されるほど濃密な気配を放っている。
この波長、間違いない。
イフターハ・アティード。
いや、アセナ氏族の王か?
「く──ひひひひひ」
ぞっとするような笑い声がコーヘンの口から漏れる。
だが、それはもうコーヘンの言葉ではなかった。
「驚いた──とても驚いたよ、アラナン・ドゥリスコル。まさか、ギデオン・コーヘンの手に負えないとは思わなかった。一年前のお前なら、本気のコーヘンには勝てなかったはずだ」
「へえ、久しぶりじゃないか、アンサー・ブラン。いやさ、運命を開く者、無色の貌と呼ぶべきかな」
「好きなように呼ぶがいい。その全てが当たっているし、またどれも外れているのだ」
ふん、実際にこうやって直に魔力に触れてみて、大体わかった気がするよ。
イフターハ・アティード──まあ、本名は別にあるんだろうけれど、この男は他人に憑依できるんじゃないかな。
つまり、ギデオン・コーヘンの意識がなくなったから、憑依していたイフターハ・アティードが前面に出てきたのだ。
しかし、大きな問題がある。
ギデオン・コーヘンの魔力はほぼ尽きていたのに、イフターハ・アティードの強大な魔力がそれを上書きしてしまったのだ。
そして、自己の強化くらいしか魔法を使えなかったコーヘンと違い、イフターハ・アティードはどんな魔法を使ってくるかわからない。
「くひひ、人狼の肉体は素晴らしいな。まるで、力が溢れてくるかのようだ」
「──寄生している分際で偉そうに!」
どう変わったか、踏み込んでみないとわからない。
行ってみるか。
瞬歩で二歩あった間合いを一気に詰め、牽制の探査掌の連打を放つ。
それを予測したかのようにコーヘンの手が動き、ぼくの右手を巻き取って引き込もうとする。
危ない。
この器用さはかなりの手練れだ。
咄嗟に前転し、コーヘンの擒縛を振り切って立ち上がる。
「──アセナの拳か」
「ほう、思ったよりイリグの技を伝えているようだな、アラナン・ドゥリスコル」
魔物を操っていた闇黒の聖典が使えたんだ。
親玉であるイフターハ・アティードが、飛竜の拳を使っても不思議はない。
しかも、いまの一瞬の手合わせでわかる。
こいつの拳の腕は、ぼくより数段上だ。
しかし、人狼の腕力と速度と耐久性に、イフターハ・アティードの魔法と拳技が加わったら死角がないんじゃないか?
振り向き様、イフターハ・アティードが両手を振り下ろすように叩きつけてくる。
虎勢!
魔力の乗った重い一撃だ。
両腕を交差させて受けたが、勇敢なる戦士越しでも腕が痺れる。
だが、それで終わらない。
逆手の虎勢が打ち下ろされ、ぼくの受けが崩される。
この流れはまずい。
態勢の崩れたぼくに向けて、イフターハ・アティードが右足を踏み込み、右手を真っ直ぐ突きだしてくる。
飛竜の絶技、虎手激勢の三手目。
あれをまともに食らえば、命はない。
その三打目の雷衝が、ぼくの胸に叩き込まれた。