第十章 春宵に響く鐘 -10-
黒騎士アルトゥール・フォン・ビシュヴァイラーは、半分目を閉じるようにして佇んでいる。
黒騎士が皇帝を護る剣と呼ばれるのは、その爵位がレナス帝領伯だからだ。
ヴィッテンベルク帝国の貴族制度も、アルマニャック王国とそう大差はない。
伯や副伯の中で勢威を振るう者が王や公となり、その地域の領袖となる。
その中でヴィッテンベルク王を継いだ者が、ルウム教会の承認を受けて皇帝に即位する。
だから、元々公や伯は皇帝の家臣ではなく同朋であり、支配力は脆弱である。
そんな貴族連中の中で、帝領伯は珍しい存在だ。
これは皇帝直属の書記官に与えられる爵位であり、従って皇帝の直臣なのである。
レナス帝領伯を継ぐアルトゥール・フォン・ビシュヴァイラーが他の貴族と違い、皇帝を守護する存在であるのにはそういう理由がある。
しかし、黒騎士の役職が書記官って、ちょっと笑えるものがあるよ。
静かに試合開始を待つレナス帝領伯に比べ、メディオラ公はちょっと緊張が強いみたいだな。
ハンスやオーレリアン公と戦ったときには見られなかった汗が、試合前から額に滲んでいる。
「メディオラ公ロレンツォ・スフォルツァは一流の剣士だよ。でも、黒騎士アルトゥール・フォン・ビシュヴァイラーは別格なんだ。飛竜との戦いを見たかったな」
ハンスは、とことん黒騎士が好きなんだな。
さあ、審判が出てきた。
本日最後の試合、優勝候補本命の黒騎士と、百戦錬磨のメディオラ公の試合が始まる。
賭けの倍率は、黒騎士が一・一倍。メディオラ公が十二・五倍だ。
観衆も、どっちが勝つかはわかっているのだろう。
しかし、いくら黒騎士が強いとはいえ、あれだけの手練れのメディオラ公が、そう簡単に負けるとは思えない。
技も多彩だし、身体強化も熟練の域に達している。
そんなことを考えているのは、ぼくだけなのかな。
審判の右手が上がる。
メディオラ公が、双剣で竜の顎を形作る。
代名詞となっている竜牙剣に賭けたか。
「試合開始!」
開始の声がかかるが、メディオラ公は動かない。
あの姿勢は待ちの構えだからな。
一方、黒騎士 は、薄く半目のまますらすらと歩き始める。
その歩みは決して速いものではなく、ごく普通の感じだ。
無造作に間合いに飛び込んでくる黒騎士に、メディオラ公も目を丸くする。
だが、相手が相手だけに一瞬の油断が命取りになる。
公爵もそれは忘れない。
上下から同時に剣が振られる。
竜が噛み砕くように、刃が黒騎士に迫る。
だが、アルトゥール・フォン・ビシュヴァイラーは、まだ刀を抜いてすらいなかった。
「これは──」
公爵の勝ちではないか。
一瞬、そう思ったときであった。
いつの間にか黒騎士が、メディオラ公の背後にいた。
そして、審判が試合終了と黒騎士の勝ちを告げる。
「神速の断罪……」
喘ぐようにハンスが呟く。
どう、とメディオラ公が地面に倒れた。
観客席は、異様に静まり返っていた。
何故なら、魔導画面に再生が出てこないのだ。
「何が起きたんだ?」
ぼくの独白は、意外と大きかったらしい。
耳にしたハンスが、震える手で試合場を指差す。
「黒騎士の抜刀術だよ。といっても、抜く手を見たこともないんだけれどね。飛竜の竜爪破邪と並ぶ帝国で最も有名な技。神速の断罪さ」
神速の断罪か。
油断していたとはいえ、何をやったのか全く見えないとは。
抜刀術──つまり、あの鞘に入った刀を抜いてメディオラ公を斬り、また鞘に戻したのか。
だが、エリオット卿や、シュヴァルツェンベルク伯のような虚空の記録に接続した形跡はないんだが、どうやってあの速度を出しているんだろう。
観客席は、今頃歓呼の声を上げ始めていた。
黒騎士は、貴賓席の痩せた老人に騎士の礼を捧げると、静かに退出していく。
「皇帝陛下だよ。ヴィッテンベルク皇帝にしてヴィッテンベルク王、ラティルス王、レツェブエル公、モラヴィア辺境伯、ブルグンド伯のバルドゥイン・フォン・レツェブエル陛下だ」
ああ、あれが当代の皇帝か。
痩せた老人だな、という印象だ。
すでに生気が薄く、あれでは統治もままならないよね。
あれで直系の男子がいないんじゃ、後継が問題になるのもわかる気はするよ。
「ヴァイスブルク家が後押ししたシュヴァルツェンベルク伯が負け、皇帝の直臣である黒騎士が勝ったんだ。陛下はご機嫌がいいはずだ。まさに、それを見るために来られたといっても過言ではないんじゃないかな」
ハンスは流石に帝国の内情に詳しい。
しかし、聞けば聞くほどきな臭いな。
ヴァイスブルク家と反ヴァイスブルク家の抗争が、どの程度の規模になるのか想像もつかない。
オニール学長はこの件どう考えているのかな。
二回戦の全試合が終了し、今日はもう試合はない。
観客も帰り始めていた。
ぼくたちも、ちょっと屋台でも冷やかして帰ろうかと相談していたときだった。
真っ先にその音に気付いたのは、ファリニシュだった。
「主様、鐘が鳴っておりんす」
──かんかんかん。かん。かんかんかん。かん。
確かに、ファリニシュの言うとおり、鐘が鳴っている。
耳を澄ませていたハンスとアルフレートが、顔色を変えた。
みなの中では領主貴族の息子である二人だけが、この鐘の鳴らし方の意味を知っていた。
「ハンスさん!」
「──ああ、これは敵襲を知らせる鐘だ。しかも、三の一の交打。意味は──魔物の襲撃だ」
魔物の襲撃だって?
確かに、このベール競技場は城壁の外にあるが、仮にもヘルヴェティアの首都だ。
巡回の警備の兵も、魔物を狩る冒険者も大勢いるはずだ。
い、いや、待てよ。
警備兵も冒険者も、いまは聖典教団の捜索で手一杯。
魔物のことなんて、考えてもいなかったはず。
「イリヤ!」
「お待ちを──主様。いま、大魔導師に確かめなんす!」
ファリニシュが、オニール学長と念話で話し始める。
思い浮かぶのは、一年前のヴィルケトヘーヒ山だ。
あのとき、ファドゥーツ伯は人面鳥と一緒に現れた。
今度も同じだとしたら、魔物を操る能力を持ったやつがいるんだ。