第十章 春宵に響く鐘 -5-
ハーフェズは全力で挑み、そして届かなかった。
へらへらしているようで、あいつは結構自尊心が高い。
選抜戦でぼくに負けたのも、かなり悔しかったはずだ。
それが、これだけ完膚なきに叩きのめされたのだ。
へし折られた鼻も、当分癒えまい。
西口に引き揚げていくハーフェズの背中を見ながら、彼が再び立ち上がるときを祈った。
「ちょう歯応えがあらへんどしたな。キアランはん、うっとこで教えた方がよろしおすか?」
汗ひとつかかず、聖騎士が帰ってくる。
ダンバーさんは顔色も変えなかったが、コンスタンツェさんが教え方が悪いと当て擦っているのはわかっているんだろう。
珍しく返事をせず、頭を下げただけであった。
歓声が湧き、魔導画面に目を転じると、白い頭布を巻いた右頬に傷のある大男が映し出されていた。
セイレイスの鷹、ターヒル・ジャリール・ルーカーンだ。
一回戦でスパーニアのアルカサル公を破った実力は、推薦組にも匹敵するものがある。
「それでは、わたくしも行って参ります」
慇懃に一礼すると、ダンバーさんは戦場へと向かっていった。
ギルドの黄金級冒険者で唯一棄権しておらず、ハーフェズの無念も背負ったダンバーさんは、こんなところで負けるわけにもいくまい。
あのターヒル将軍と、どう戦うつもりなのか。
「続いて東より現れたるは、冒険者ギルドの誇る三人の黄金級冒険者の一人、魔法陣を極めし男、鉄壁の護衛者、アルビオン貴族に最も愛された冒険者、執事、キアラン・ダンバー!」
紹介を受け、黒の燕尾服を着たダンバーさんが登場する。
黄金級冒険者のダンバーさんは、ヘルヴェティアでも人気は高い。
特に、貴族の多い指定席の女性からの声援が大きいようだ。
「キアランはんに護られたいいうおばはんも、ぎょうさんおるらしおすなあ」
「ふーん……まあ、わかる気はするよ」
コンスタンツェさんのドレスは結構刺激が強いので、余り近くに来られても困る。
隣に座ったコンスタンツェさんと、さりげなく僅かに距離を取る。
それにしても、ダンバーさんに力みはないな。
武器も持っているようには見えない。
素手でやるつもりかな。
執事という職の特性上、武器なんて持ってない状況での戦いも確かに多そうだが……。
ターヒル・ジャリール・ルーカーンの持つ凶悪な鉄槍を見ると、素手で大丈夫かと思うよなあ。
「それにしても、次の出場者が来いひんなあ。誰どしたか、そう、スヴェン・クリングヴァルはんでっしゃろ?」
「──午後からですしね」
確かに、クリングヴァル先生はまだ来ていなかった。
その次のストリンドベリ先生もだ。
黒騎士は、上で観戦していたが……先生たちはどうしたんだろう。
「鼠狩りでせわしないんはわかるんやけれど、あんまり棄権者が増えるんもかなんわあ」
「クリングヴァル先生は大丈夫ですよ。あの方は、飛竜の技を伝える人です」
しかし、遅いのは確かだ。
ダンバーさんは来ているから、全体で何かあったわけではないと思うんだけど。
そんな話をしている間に、試合が始まりそうになっていた。
審判が出てくる。
ダンバーさんは、いつでも動けるように脱力している。
ターヒル将軍は槍を構え、迎え撃つ態勢だ。
「試合開始!」
声が掛かったが、いきなり試合は動かなかった。
槍を持つターヒル将軍は、無手のダンバーさんより間合いが長い。
それだけに、無闇に動こうとせず、待ちの姿勢である。
対して、ダンバーさんは、静かに歩き始める。
コツコツと、散歩でもするように自然に前に出た。
先に間合いに入ったのは、ターヒル将軍の方だ。
無造作に近付くダンバーさんに、一歩踏み込んで突きかかる。
重い鉄槍とは思えぬ素早い突き。
だが、これをダンバーさんは何と素手で受け払う。
「まさか。あれを素手で?」
「払いと合わせて魔法陣を使ってはるんやね」
あの一瞬で魔法陣で強化していたのか。
ハーフェズとは展開の速度が違うな。
しかも、衝突の瞬間だけ展開している。
そのさりげない使い方に熟練の技を感じるよ。
それでも、ターヒル将軍は素早い突きを連続で繰り出し、ダンバーさんを突き放す。
素手のダンバーさんは、もう二、三歩踏み込まないと攻め込めない。
だが、砂漠の鷹が近付かせないのだ。
ターヒル将軍の連続攻撃は、苛烈なものがある。
あのダンバーさんが、防戦一方になるほどだ。
だが、どんな連打も無限に撃ち続けられない。
三分ほど一方的に攻撃していた砂漠の鷹が、息継ぎのために一瞬手を止める。
その一瞬で、執事は二歩間合いを詰めた。
槍の間合いには近く、拳の間合いには一歩遠い。
ターヒル将軍は、初めて連打をやめ、間合いを取ろうとする。
ダンバーさんも追うが、牽制の足払いを混ぜられてなかなか詰められない。
だが、下がるにも限界はあった。
観客席の壁を背にした将軍は、もうこれ以上下がれない。
そこに、ゆっくりとした足取りで執事が迫る。
ターヒル将軍は槍を投げ捨てると、魔法の袋から戦斧を取り出した。
間合いが変わり、力の乗った攻撃がダンバーさんを襲う。
近距離の攻撃は、ダンバーさんといえど全てはかわしきれない。
上段からの斧の一撃を、左手で受ける。
三十ポンド(約十三キログラム)はありそうな斧だ。
普通なら、骨を砕かれて受けた腕ごと頭を割られる。
だが、逆に斧の方が弾かれ、将軍は態勢を崩した。
「あれがキアランはんの切り札、反射陣どす」
「魔法陣で反射したのか!」
流石は黄金級冒険者。
思わず感嘆していると、隣のコンスタンツェさんが、食い入るように魔導画面を見ている。
まるで、二人の技の隙を見切ろうとしているかのようだ。
次の試合で対戦するからなあ。
態勢を崩した鷹に、ダンバーさんが肉薄する。
初めて攻勢に出る執事。
牽制の左突きで距離を測り、唸りを上げて右拳が飛ぶ。
だが、そこでいきなり鷹の速度が上がった。
逆に前に踏み込むと、ぎりぎりで拳をかわし、そのまま壁際を脱出する。
「魔力圧縮を使ったか」
ターヒル将軍の身体強化が、明らかに数段階撥ね上がっている。
圧縮した魔力を爆発させて、循環の速度を速めたのだ。
「様子見は終わりおす」
舌嘗めずりをしかねない勢いでコンスタンツェさんが言った。
「手の内を隠しては勝てへんえ。本気できばりやす」
探りながら戦っていた執事と砂漠の鷹が、いよいよ本気になる。
その一挙手一投足を、食い入るように聖騎士が見つめていた。