終章(間奏?) いま居る此処で――
終章 いま居る此処で――
そこは都内にある病院の、とある個室の前であった。
扉を開けると、部屋の中の白い空間のその向こうで、ベッドの上に一人の少女の姿がある。ブラウンの長い髪を降ろし、こちらを向いた榛色の瞳が、わずかに見開かれる。「恢人くん……」というその声に、彼は部屋の中に入り、机の上に見舞いのフルーツバスケットを置いた。
その中の林檎を一つ手に取り、
「食べるか?」
と、そう聞いてみせる。
するとベッドの上の彼女はおかしそうに小さく笑って、
「うん」
と、笑って頷いて見せた。
だから恢人は椅子に座り、ナイフを手に取り、林檎の赤い皮を剥いていく。するするするすると手馴れた手つきで用意し、けれどその途中、ふとした彼女の、有紗の言葉に手を止める。
「恢人くん……あれから、一体どうなったの? やっぱり、あの娘は……」
言いかけて、有紗は泣き出しそうな顔で、こちらを振り返る。
その顔は慰めの嘘など必要としていなかった。現実から逃げたくて、その質問をしているわけではない。むしろそれを真正面から見たいから、聞いているのだ。
「……死んだよ。あの高さでは、助からない」
恢人は噛み締めるように、そう答えた。
いくら罪より為りし悪魔の権化といえども、その命が死なないわけではない。体が跡形もなく吹き飛んでしまえば、どんな生物でも死んでしまうに決まっている。だからはっきりと言う。助からなかったと。
「………………」
長い沈黙が続き、けれどもその間にも恢人は、林檎を切り分ける。
彼がナイフを置いた時、ようやく有紗が、声を出した。
「ねえ、恢人くん……」
恢人は何も返さない。
「罪より為りし悪魔の権化はどうして、生まれるのかな……何であの娘も、蜜柑ちゃんも、何も悪くないはずなのに、あんな風にならなくちゃいけなかったのかな。何で、どうしてなの、恢人くん……」
だがその質問に、今度の恢人はただ押し黙る。
でもやがて。
やがて諦めたようにその口を開き、彼は立ち上がった。
「……正直なところ、それはぼくにも分からないよ。なぜ人間が、生物が罪より為りし悪魔の権化になるのか、なぜ本当に心の底から諦めてしまった時に、そうなるのか。でもね、有紗、これだけは言えるんだ」
恢人は榛色の、その双眸を見つめ。
「この世界にはどうしようもない現実が平然と転がっている。人が死ぬのも風が吹いているのと、陽が照っているのと同じくらい当たり前で、もうどうしようもない。結局、そういうことを知っている人間と知らない人間がいて、この世界はようやく成立することができているわけだ」
「…………ぅん」
「だから、たったそれだけの話なんだよ。君がそんなにも背負う必要は、どこにもない」
「…………っ」
唇を噛み締めるように、有紗が口を噤む。
それを見て、恢人はそっと目を瞑り、踵を返す。現実は現実だ、それはもうどうしようもなくて、決して変えられるものではなくて。救いばっかがあるなんて嘘を、恢人は決して吐きたくはない。
すると、出口に差し掛かったその時、背後から声が聞こえる。
「……それじゃ、それじゃいつか、あの娘みたいな、蜜柑ちゃんみたいな、つらい思いをするような人がいなくなる世界を、作れるのかな、作ることが、変えられることが、できる日が来るのかな!」
それに、恢人は、扉に手をかけながら、
「さあ、それは、ぼくには分からないよ。でも、」
恢人は一歩、部屋の外に踏み出して、振り向かないまま、継げる。
「君がそう望むなら、そうなる日が来る可能性も、あるのかもしれない」
そうして恢人は彼女の返答も耳に入れぬまま、病室を後にする。
きっとそう、彼女はいま、泣いてしまっているだろうから。そんな彼女を見たくないから、恢人は振り向かない。振り返らない。それはたぶん、優しさではないと、そう思うから。
個室を後にした恢人は、ふと歩きながら、ポケットの中に手を入れた。その手を出すと、そこには一つのブレスレットの姿がある。青い、空色の、いつかあの少女と一緒に買った、ブレスレット。立ち止まった彼はそれをしばらく見つめ、ぎゅっと強く、掌の中に握る。握り締める。
――――それじゃ、それじゃいつか、あの娘みたいな、蜜柑ちゃんみたいな、つらい思いをするような人がいなくなる世界を、作れるのかな、作ることが、変えられることが、できる日が来るのかな!
まだ一分と経たないその言葉が脳裏に蘇り、恢人は奥歯を噛み締めた。つらい思いをするような人がいなくなる世界、皆が皆笑っていられる世界、本当にそういうものがあればいいと、彼自身もそう思うけれど。でも現実はそんなにも甘くないことを、彼は知っている。
人一人の力ではどうにもできない無力さを、彼は知っている。
(でも、それでも、ぼくは……)
掌の中のブレスレットは、いまはそう、自分が誰かと繋がっている証だから。
だから、彼は。
と、その時だった。
不意に立ち止まっていた彼の目の前で、エレベータの扉が開く。チーン、とそんな軽快な音を鳴らして、中から人が現れる。長いロングヘアにメガネをかけた、見覚えのある人物。隊長。海原蓮。その姿を前にして、恢人は顔を上げ、ブレスレットをポケットの中に再び戻す。
「ああ、恢人くん。もしかして君も、有紗さんのお見舞いに来てくれたのですか?」
「…………」
白い薔薇の花束を抱えた隊長に、けれど恢人は何も返さない。
すると隊長は、
「ああ、そうそう。君に渡すものがあるんでした。ええと、どこに入れましたっけ?」言いながら、片手でポケットを探り、「あ、あったあった、ありました。実はですね、今日でもう有紗さんが三日目になるわけですが、恢人くんにも一日だけ検査を受けてもらったでしょう? ここの病院には口の堅い友人がいるのですが、先ほど、彼からその、検査結果をいただきまして」
そう言って、隊長は一枚の紙切れを手渡してくる。
恢人はその半分に折られた紙を受け取ろうとする。受け取ろうとして、でも隊長が紙を離してくれなくて、戸惑う。顔を上げると、相変わらず笑顔の隊長の顔があった。けれどもその黒い瞳は、かすかにも笑ってなどいない。
「……気を付けてくださいね。私はもう、これ以上大事なものを失いたくありません。この意味、君なら分かるでしょう?」
ぐ、と強く紙を掴む隊長の指に力がこもるのが分かる。
やがて離されたその紙を、恢人は確かに受け取った。このたった一枚の紙切れに何が書かれているのか分からないけれど、でもそれは決して、いいことではないのだろう。「それでは」と言い残し、横を歩いていく隊長に、恢人は何も返さず同じように歩き出した。
エレベータに乗り、壁に背を預け、彼はその紙を開く。
そこにはこう、書いてあった。
氏名 木更恢人
上記の者には胸部X線、心電図検査などの結果より拡張型心筋症の疑いがあるとされる。心筋が薄く伸び切りポンプ機能が低下しており、また血液の循環が上手く作用していないために他臓器の腐食化が一部見られる。特に肝臓のランゲルハンス島が異常なまでに活発化しており、負担がかかりきっているためにα細胞とβ細胞の活動が著しく低下している。……どういう事情なのかは分からないが、この体が、というよりも、恐らくこの心臓が正常に活動してくれるのは、もって二〇年が限界だろう。木更恢人さん、死にたくなければいますぐに私の元に来なさい。でなければ君は、必ず後悔をすることになる。
平成 2×年 5月 23日