へん人No.3 朽葉千羽 その1
粉々になった窓ガラスを片づけ、防犯の面では非常に心細いのだが網戸とカーテンだけを閉め、家を出ようと思った時には既に八時を回っていた。
学校までは徒歩で三十分、自転車では十五分ほどかかるのだけれど、玄関の鍵を閉めた時点で遅刻することは分かっていた。
――遡ること十分前。
俺が詰問されていた時に、スマホの画面――恐らく着信履歴――を見た栖桐から「……自転車貸してほしいんだけど……ダメ……かな?」と、上目遣いで頼まれてしまった。
吸い込まれそうな漆黒の瞳に、端正な顔立ち。そして微かに香る我が家と同じシャンプーの匂い。
「あんなの断れるわけないよな……女の子って卑怯だわ」
もし、あの状況で「NO!」と言える男子高校生がいるとすれば、それは既に恋人がいる。『リア』な男子か、女子高校生に一片たりとも興味がない『アレ』な男子。のどちらかだろう。
「まぁ……自転車があったところで、二人乗りは出来ないし、どっちにしろ遅刻は確定だったろうけどな」
鍵がちゃんとかかっているか確認するために、三回ほどドアノブを回す。うん、ちゃんと閉まっているようだ。
ポケットからスマホを取り出し、画面の右上を確認すると、時計は八時五分と表示していた。
もし、ここからわき目も振らずにがむしゃらに全力疾走すれば、HRが始まる八時三十分には学校に到着できそうな気がする……けれど、今しがた大量の朝食を摂取したばかりだ。走ってしまうといろいろヤバい。確実にわき腹がヤバい。
「とりあえず芦屋にだけはメール送っとくか」
俺は成績が特別良いわけでもないし、出席率が良いわけでもない。
加えてあの無気力美人教師が、わざわざ俺一人の事を気にかけるはずもない。
だが、芦屋はいつも俺が遅刻や欠席をすると決まってもの凄く心配をしてくれるのだ。
「『今日、は、二、時間、目、から、授業、でるわ』……送、信、っと」
ガラケーからスマホに機種変更した当初は、フリック入力に四苦八苦したものだけど流石に一年も使い続けていれば、フリックだろうがミミックだろうがリリックだろうがヘッチャラだ。
『送信完了しました』というメッセージを確認して、スマホをズボンのポケットに入れて歩きだすと、一分も経っていないというのにも関わらず、返信を告げる着信音が聞こえてきた。
「早ッ!? もうメール返してきたのか!? いや、いくらなんでも早すぎるような――」
ポケットからスマホをもう一度取り出し、届いたメールの宛先を確認すると、やはり送り主は芦屋だった。
件名には『昨夜はお楽しみでしたね……』とだけ書いてある。
「……なになに? 『あんまり仲良くするのもいけど、付けるもんは付けるんだぞ? 後悔は、先に絶てないんだからなッ!(親指を立てた絵文字)』ってなんじゃそりゃぁぁぁ! どういうことだよ! 意味がわかんねぇわ!!」
往来でスマホに向かって叫ぶ俺に、周囲の人達が驚きと戸惑いの目を向けてくるのが分かった。「何だ何だ!?」「どうした!?」「警察に連絡した方がいいんじゃないのかしら?」などなど、完全に不審者扱いをされている。しかし、叫ばずにはいられなかった。
「とりあえず学校着いたら一発殴る……いや、泣くまで殴ってやる!」
――そして俺は走った。
理由は簡単、俺の不穏な発言を聞いてギョッとしたサラリーマンが、「も、もしもし!? 警察ですか!? 今目の前に怪しい高校生がいるんですッ! は、早く来て下さいーーーッ!」と、携帯に叫んでいるのが見えてしまったからだ。
捕まる事はないだろうけど、本当に警察に来られても困るのでとにかく走った。
「はぁ……はぁ……あーしんどい」
家と学校のちょうど中間に位置するここ、小中公園の隅に設置してあるベンチに寝ころび、仰向けになりながら空を見つめる。
平日の早朝だからか、遊具で遊んでいる子供は一人もいない。
これが、夕方頃になると近くの小学校に通っている子供たちがコンビニで売っている百円のゴムボールとカラーバットを持って、ちびっ子野球を始めたりするのだけど、時刻は八時十五分を過ぎたばかり。
当然の事ながら、公園には静寂しか流れていなかった。
ざわ……ざわ……と心地いい風が体を包み込んでいく。
「はぁーー芦屋には遅刻するって言ったけど……やっぱり今日は休んじゃおっかなぁ」
このまま時の流れに身を任せて、ダラダラと過ごすのもいいかもしれない。
「ふぁーーーあぁ……そう考えたら眠たくなってきたな……んん?」
瞼を閉じ、こみ上げてきた睡魔に身を委ねようとしたところで、何かが聞こえてきた。
「……なんだ?」
こみ上げてきた睡魔を身体の奥底に押しやり、反動をつけてベンチに座りなおし意識を集中させる――と、どうやらそれは五メートルほど後方の茂みで蠢いている何かから発せられているようだ。
正体を確かめるため、抜き足、差し足で忍びよると――
「……!! 茂みからスカートが生えてる……だと!?」
腰の辺りまで伸びた、低木の間から何故かスカートが生えていた。
とは言っても、本当にスカートが生えているわけじゃなく、正確には女の子が低木の間に上半身を突っ込んで、何かを探しているみたいだった。
「んー? ないなぁー? あれー? うーん? どこに落としたんだろ?」
何か探しているのだろうか? しきりにお尻をフリフリと左右に揺らしている。
『覗いちゃえよ、ぐへへへへ』『今なら覗いてもバレねーって!』『いつ覗くの? ……今でしょ!』
心の中の悪魔が囁き、語りかけ、誘惑してくる。……ってあれ!? 天使は!? 俺の良心は!?
『天使ゥ? それはあそこでオネンネしている腰抜けのことかい?』
悪魔が指差した方向を見ると、ボロボロになった俺の良心という名の天使が横たわっていた。三対一で一方的にやられたのか!? なんて惨いことを……。
『さぁ、行くのだ我が肉体よッ!! 桃源郷はすぐそこぞッ!!』『今なら覗いても赦してくれるって!』『いつ覗くの? 今でしょ!!』
くっ、これはもう行くしかないのか? やるしかないのか? ここまでお膳立てされるちゃあ突撃あるのみなのか? あくまでこの悪魔たちは俺の空想に過ぎないが、こんな空想を思い浮かべてしまうということは、心の奥底ではスカートを覗くことを望んでいるということなのか?
見ると、いまだにお尻はフリフリと左右に揺れている。もはやここまで来ると誘っているとしか思えない……!!
「じゃあ、いつ覗くのかって? 今だ――ぐあぁぁぁ!!」
瞬間――欲望に従うままスカートの端を掴んだ俺は、スカートの持ち主が放った後ろ蹴りを脛に思いっきり食らってしまった。
「ん? 何か変な感触が……ってありゃ? こんな所に男の子が倒れてる。ねぇねぇ? どうしたの? 大丈夫ー?」
「だ……大丈夫……心配してくれなくても大丈夫……」
反応から察するに、どうやらこの女の子は俺が桃源郷に文字通り首を突っ込む一歩手前だったことには気がついていないみたいだ。
ジンジンと脛が痛むが、これは不幸中の幸いだ。このまま何事もなく学校に行こう。クールに去ろう。
「い、いや……大丈夫、本当に大丈夫だから……それと俺はもう学校行くから……」
「え? キミいまさっきボクのスカートの中覗こうとしてたよね? それなのにボクには謝罪の一つも無いのかい? 見たところボクがこれから向かう学校の生徒さんだと思うけど、キミがボクのスカートを覗こうとしたことを先生にチクってもいいんだよ?」
ば、バレてるぅぅぅ!!
「…………す」
「す?」
「すいませんでしたァァァ!!」
不貞行為がバレてるうえ、今さらながら気がついたが、この子は俺が通っている小中高校の制服を着ていた。
「フフッ。チェック・メイトだ」
どこか嬉しそうに微笑みながら、右手の人差し指と親指でゆびでっぽうを作り俺に向かって引き金を引いた。
続く