あたしのやり方・前編
一般的な言い方は好きじゃないのだけれど。
あたしは人より、見えない方がいいものを見る機会がやたらと多い。
事の起こりは小学四年生の夏で、肝試し中に道に迷っていたら白い服のおじいさんが道を教えてくれたのだ。当時それをあっさり人にしゃべったら、肝試しを仕切る地区会の中学生が悲鳴を上げて大騒ぎになった。以来、夜中に初対面の人と会話をしても絶対に口外しないようにしている。
あたしが中学生になったときには、いわゆる「こっくりさん」が周期的なブームを迎えていて、教室のあちこちで10円玉が紙の上で滑らされていた。その間、私はずっと図書室に逃げていた。狐が浮いているくらいなら我慢できるが、間違って呼び出された若い色白のお姉さん(しかも髪の毛を振り乱したままの)なんか見ながら平然としていられる訳がない。
そういう経験は少なからずあたしに度胸をつけたが、あたしに親しみを示してくれる「ひと」はだんだん減っていった。それは、ほんの少し寂しい事だった。
あたしが勤める会社はいわゆる電子系のベンチャー企業で、オフィスもとても新しい。しかし、オフィスがある通りは少しうらぶれた感じで、夕暮れ時に通るのは何もなくともどことなく嫌な感じがする。
それが起こったのも、空が黄色から赤へと変わり始める黄昏時だった。
あたしは残業に備えた買出しを終えて、足早にオフィスへと戻るところだった。太陽はあたしのちょうど真後ろにあって、町並みを丁寧に照らしていた。しかしあたしの前には長い長い影が伸びていて、あたしはなんとなく不安な気持ちになった。
この感覚がいけない。結局、見ないほうがいいものを見て実際的な被害をこうむる事などほとんどないのだが、被害をこうむる予感というのがこの感覚なのである。
……と、明治の文学家が喜びそうな表現をしてみたが、本当の話だ。六年生の時にはこの感覚の後、路上に立っている男性を見つけて、ふと気がつくと自分がその位置に来てしまっていて……危うく交通事故になるところだった。高校の入学式では校長の横に怖い顔のおばあさんがいて、脳貧血で保健室送りになった。
そんなわけで、あたしは久しぶりの感覚に緊張して、身震いしながら足を速めた。
と。
すれ違ったサラリーマンの影の中に、黒猫がいた。
猫は別に珍しくない。このうらぶれた通りには猫が似合うし、黒猫にもときたま出くわす。
しかし……そのサラリーマンはかなり足早に歩いているにもかかわらず、黒猫はまるで体を動かしていない。にもかかわらず、猫は彼の影の上にしっかりと乗ったまま、取り残されずについていっているのである。
あたしは思わず足を止め、口を半開きにしてそれをじっと見ていた。
黒猫はそんなあたしに気付いたのか、ふいと首を曲げてこちらを向いた。影に乗って、だんだんあたしから遠くなっていきながら、黒猫はあたしに向かって、はっきりとこう言った。
「深入りしたくなければ、見なかったことにしてね」
そして黒猫はそのまま、影の中に溶け込むように消えてしまった。
見なかったことにするのは簡単だ。
あたしには仕事があるし、一人暮らしの生活も維持しないといけないし、残りは趣味だの遊びだのに費やすことも出来る。そういう生活を続けるのは難しいことではない。
しかし。
あたしは、この出来事がそれなりに大きい意味を持つのだと感じていた。妙な感覚の事もあるし、動物の姿をしたもので口をきくものに会ったのは初めてだった。
何があたしを駆り立てたのかは分からない。深入りなんて、本当はしたくない。けれど、あたしはどうにかしてあの猫に再び会いたいと思った。
町には一本、家の裏側を辿るようにして細い道がある。
あたしは相変わらずの腐臭を気にしながら奥に入って、いつものダンボール(私がこっそり運び込んだのだ)に腰掛けた。放っておいても、雨さえなければしばらくは壊れない。
既に足元には子猫が数匹集まってきている。あたしは持ってきたサーモンフレークのビンを開けると、少しずつ取り出して子猫たちに振舞った。最初は度々引っ掻かれたけれど、そのうち慣れられたのか、猫の匂いがついたからなのか、町の野良猫は幾分かあたしに優しくなっていた。
この町の猫は、少し変わっている。かなり大人しくて、あまり鳴かない猫が多いのだ……実際あたしも、こんなに猫がいるとは思っていなかった。雄猫が夜中に唸る声なども、そういえばあまり聞かない。しかし、この裏通りだけでも猫は十匹近くいる。
あるいは、どの町でもそういうものなのかもしれない。町を作ったのは人間だが、その裏側には驚くほどたくさんの人間以外の生き物が住んでいる。
それにしても、夜は静かだ。まだ真夜中というわけでもないし、眠っている人も少ないだろうが、まるで物音がしない。時折、遠くを車が走り去るだけだ。
満腹になった子猫たちはお互いでじゃれあったり、あたしの足元で体を丸めている。
そのとき。
「えっ!?」
背中を這い登るようなあの感覚が、あたしの全身を貫いた。思わず立ち上がったが、子猫たちは不思議そうにそれを見ているだけだ。
そして、ブロック塀の上に、見たことのない黒猫が一匹いた。
あたしは身構えて、猫の次の動きを待った。
ところが黒猫の方は、そういうリアクションが意外だったらしく、少々たじろいで首を回した。
それから、あたしに言った。
「……俺、……お腹すいた」